マンガ家が見た古事記ワンダーランド
古代にまつわる講演会 橿原市
2017年12月2日(土)13時00分~14時30分
会場・奈良県社会福祉総合センター 大ホール
講師・マンガ家 あおきてつお氏
演題・「マンガ家が見た古事記ワンダーランド」
講演の内容
私が古代史に興味を持ったきっかけは「日本のはじまり」を知りたかったという想いからだ。そして古代史好きが高じて、集英社の「マンガ日本の歴史」の旧石器時代から奈良時代までを執筆することになるのだが、想定した以上に歴史を漫画にするのは大変で、普通の漫画の3倍以上、およそ1年半の製作期間を要した。これから私が歴史漫画を描いた際に感じたことをお話ししたいと思う。
まず、第一に「歴史と漫画は非常に相性がいい」ということだ。歴史というのは人間の喜怒哀楽の積み重ねである。漫画は、歴史上の人物の感情を表現し、建物や服装、風俗などを描くことで読者は、その時代を疑似体験することが出来る。しかし、通史になると膨大な人物が登場し、ストーリーが把握しづらくなるデメリットもある。私自身、年表をコマ割りしたような面白みのない漫画にならないように心掛けた。 次なる課題は、「定説を覆すようなことは描けない」という点で、これは古代史好きの私にとってはもどかしくもあった。例えば、定説では中臣鎌足と中大兄皇子によって蘇我氏が討たれた乙巳の変は近年、孝徳天皇が黒幕であったという説も唱えられている。私はその説に基づいた描写を密かに書き込むなど、定説を軸に描きつつ、異説としても読み取ることが出来る描写をいくつか加えた。
また、時代考証に基づいた描写を徹底した。縄文人の頭身や馬の大きさ、弥生時代の土器の種類や農工具に至るまで忠実に描いた。しかし、建物と服装については飛鳥時代以前の資料が乏しく、建物については遺跡や古い寺社、服装は天寿国繍帳などを参考にしながら想像を交えて描いた。細かなところでは当時の服の着方を埴輪などで検証した結果、襟は今と逆で左前であったと推論し、この作品では左前で描いている。このように歴史、とりわけ古代を漫画にするということは、大変な労力が必要なのだが、私にとっては新しい発見もあり有意義でもあった。
ここからは、我が国最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」の神話を紐解きながら日本神話の素晴らしさと、そこに隠されている謎に迫りたいと思う。まず踏まえておきたいことは、記紀が生まれた時代背景。白村江の戦いや壬申の乱で国力が低下し、国内をまとめ天皇に権力を集中する必要があった為、天皇を神とし、地方の神々や豪族の祖神が登場する物語となったのである。
天岩戸の説話は、皆既日食がベースになった神話という説はよく知られているが、もう一歩踏み込んで考えると、大きく2つの意味を見出すことができる。一つ目には皇祖神である天照大御神は、あらゆるものを照らす権威の象徴ということ。もう一つは、多くの者が協力すれば光をもたらすという「和の精神」こそ国づくりに重要なものであると、ヤマト王権は国内外に伝えているのである。
出雲の神である素戔嗚尊は「日本書紀」巻一八段の一書に、高天原を追放された際、一度、新羅に立ち寄った後、出雲に着いたと記されている。白村江の戦いで、敵国であったにもかかわらず、新羅という国名を記載していることを鑑みて、その記事の信憑性は高いと考える。そして重要なことは、新羅は鉄の生産地である。素戔嗚尊が八岐大蛇を討伐し、大蛇の体から剣を手にいれるという説話は、新羅の製鉄技術と出雲を結びつける象徴として書かれたものだ。そして素戔嗚尊という神も、製鉄技術を携え、朝鮮半島から渡来した一族、または朝鮮半島から日本列島を勢力圏とした海の民の象徴なのである。その証拠は、弥生時代後期に起こる出雲周辺の遺跡の変化で確認することができる。一世紀以前の青銅器文化の遺跡が、一世紀を境に、出雲は鉄文化の遺跡に変わり、同時期に、権力者の存在を示す四隅突出型墳丘墓が登場する。つまり、青銅の民を従えた四隅突出型墳丘をもつ独自の文化圏を築いた鉄の民こそが、のちに素戔嗚尊と称された一族である。
出雲神話の主役は素戔嗚尊の子孫、大国主命へと引き継がれる。大国主命の国作りの説話の中で、大物主という神が自身を大和の三輪山に祀れば国作りがうまくいくだろうと助言を与える場面がある。これは、出雲勢力とヤマト王権の同盟、即ち神の統一化を計った象徴であり、やがて、高天原が出雲に対し、国を譲るよう迫る、国譲りの説話の伏線ともいえる。
なぜ、ヤマト王権(=高天原)は出雲を併合したかったのか。大きな理由として、大和は、鉄の入手が地理的に困難であり、朝鮮半島からの輸入に頼らざるを得なかった。さらに出雲が九州の勢力と結託すると海上ルートは封鎖され、鉄の入手は絶望的になる。だからこそ、ヤマト王権は朝鮮半島に繋がる出雲ルートを確保する必要性があった。ではなぜ、大国・出雲が国譲りをすんなり受け入れるような逸話を作ったのか。それは、記紀の編纂当時、ヤマト王権は権力を中央に集中する必要があったため、各地の豪族の土地・民を国に献上する公地公民のモデルケースとして、このような説話を挿入したのである。
天孫降臨の説話では、天照大御神は子、天忍穂耳尊ではなく孫の瓊瓊杵尊を葦原中国へと遣わした。ここにも記紀が編纂された当時の政治情勢と大きく関わる。古事記編纂を命じた天武天皇の后、持統天皇は子の草壁皇子を早くに亡くし、孫である軽皇子を皇位につかせた。これに反対する勢力も当然あったであろうから、天孫降臨という説話を記紀に取り組むことで、孫への皇位継承を正当化したのである。こうして、瓊瓊杵尊は葦原中国へと降臨するのだが、その地は出雲でも大和でもなく、筑紫の日向の高千穂の峰という場所である。通説では宮崎県の高千穂であるという説と、霧島連峰のひとつ高千穂峰とされているが、日向という地域はヤマト王権と敵対する熊襲や隼人の領内であり、わざわざ敵地に降臨することは考えにくい。そこで、筑紫という地名を九州全域ではなく、福岡地域と狭義解釈をすると、今の朝倉市に日向石という地名をみることができる。そして、安本美典氏が考察されたように、朝倉・甘木地域と大和の纏向遺跡地域の地名とその位置関係は、相似するように並んでいる。これは、九州から大和に人が移動した痕跡であり、神武天皇が日向から大和へ東征する神武東征の説話と符合するのである。
東征ルート上の吉備と大和の遺跡は、円筒埴輪や古墳の形状など共通点が多く、一昨年、橿原市でプレ前方後円墳跡が見つかった。それらを総論すると、福岡県朝倉市あたりを拠点としていた古代天皇家は東へ向かい、吉備勢力と合流し、2世紀末に橿原へ入り、3世紀初頭に纏向に移動し、計画的な都市づくりを行ったと推測できる。では、彼らが移動した2世紀後半に九州で何が起こったのか。その答えは魏書・後漢書・梁書などのいう倭国大乱であると私は考えている。天皇を神格化する目的として書かれた記紀は、激戦地である筑紫平野での戦を逃れるために東へ向かったとは書けなかったのだ。
このように記紀神話には、真実の中にフィクションや思惑が見え隠れしているが、国をまとめしようとした強い信念を感じることが出来る。このように始まった我々の国の天皇制は、1800年以上経った今でも世界最古の王朝として連綿と受け継がれており、その最古の王朝がこの奈良の地で始まったことを私は誇らしく思う。
【講師プロフィール】
1980年デビュー。以降少年誌・青年誌を中心に執筆活動をしている。代表作に『こっとん鉄丸』(小学館)、『緋が走る』『島根の弁護士』(集英社)、『赤い靴はいた』など。現在『ショパンの事件譜』(小学館)連載中。
日本古代史に興味を抱いたのは20年以上前からで、古代をテーマの論説コミックを自費出版、2016年には『マンガ日本の歴史』(集英社)古代編3冊を執筆。古代歴史文化賞推薦委員。