記紀・万葉講座

語り継ぐココロとコトバ「大古事記展」記念シンポジウム

2014年8月28日(木)
会場・有楽町朝日ホール

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プログラム
開会あいさつ 荒井正吾(奈良県知事)
持田周三(朝日新聞社常務取締役 大阪本社代表) ※肩書は当時のものです。
第1部 基調講演
「古事記を考古学で読み解くと!!」

菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)
第2部 「大古事記展」のご紹介
 『古事記』の豊かさを心ゆくまで、楽しく味わっていただけるように「感じる」ことを大切にした「大古事記展」。その見どころポイントをご案内いたします。
第3部 トークショー
「私にとっての古事記」

 菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)
森正光氏(石上神宮宮司)
里中満智子氏(マンガ家)
天野幸弘氏(元朝日新聞編集委員)
  抽選会~エンディング

開会挨拶

荒井正吾(奈良県知事)
「大古事記展」記念シンポジウムの冒頭で、主催者である荒井正吾・奈良県知事が挨拶。「奈良県が推進する、記紀・万葉プロジェクトの立ち上げから3年目を迎え、その集大成として『大古事記展』を開催する。オリンピック開催の2020年に向け、日本の文化・歴史を世界にどのように展開するのか、アプローチを続けたい」と今後の展望を語った。

持田周三(朝日新聞社常務取締役 大阪本社代表)
同主催者である持田周三・朝日新聞社常務取締役は、昨今の古代史への関心の高まりを指摘。「今回のシンポジウムで古代へのロマンをかきたてていただき、奈良県立美術館で開催される『大古事記展』へ足を運び、古事記ゆかりの地・奈良で歴史を体感いただきたい」と締めくくった。

第1部 基調講演 古事記を考古学で読み解くと!!

冒頭、「古事記は新幹線で東京から博多まで行く間に読みきれるほどの量だが、そこにどれだけの歴史と文学が詰まっているか」と魅力を語り、「古事記は成立から1300年以上経つが、長らく日本人の愛読書ではなかった。歴史の主要な資料であり、日本人の精神性に言及していると言われ出したのは江戸時代末期であり、これを歴史だと言い出したのは明治30年くらいから」と、意外な変遷を語った。また、「古事記そのものが歴史である、と言えば誤解がいっぱいある」と指摘。100歳を超える天皇が9人もいたり、古事記の執筆がわずか110日ほどしかかかっていないのは不自然だ、などと疑問が疑問を呼ぶ。「そこでうまい方法がないかと、私の専門である考古学で古事記を見ていくといろいろなことが見えてくる」と語り、その方法は、西洋における考古学のバイブル、聖書を限りなく批判的に信じていく立場と同様であり「今日は3つだけ自信をもっていることを申し上げる」と、本日の講演内容へと進む。

明治から大正にかけ、古事記の世界、例えば伊邪那岐、伊邪那美の物語は竪穴式石室の様式と合致し、考古学で理解できるという説が出る一方、文献史学の立場から反論が出て論争になる。最後は考古学者の完敗となり、「大正半ば以後、考古学者は古事記を資料として使うのは怖いと、敬して遠ざけてきた」と語る。しかし、竪穴式石室と横穴式石室の始まりがほぼ明らかになった現在では、伊邪那岐、伊邪那美の物語を作った世代の人が推定でき、「古事記の神話伝承の具体的な表現は、明らかに後期古墳の時代、横穴式石室の時代を述べている」と自らの考えを披露。

続いて、伊勢神宮、出雲大社をはじめ全国の多くの神社に残る屋根の千木・鰹木の物語が古事記の中に出てくるという話題に。古事記の下巻に雄略天皇の時代の話として、天皇が若日下部王のもとへ通う道すがらに、鰹木を屋根に上げた家が目に入り、身分不相応だとしてその家を焼かせたというトピックスを紹介。以下、スライドにて鰹木が5本あり、千木のない家形の埴輪を紹介するなどしながら、各地の遺跡発掘の結果、古墳時代に実際に埴輪のような家があったと推定されると報告。また、千木を載せた家形埴輪が出土していることも紹介。「仮定ではあるが、大王すなわち天皇の家屋と、家形埴輪はある程度同じ建築意匠で制作されただろう」と考古学の成果を披露。

なお、全国の家形埴輪の出土状況から、鰹木は西暦400年くらいから、千木は500年くらいからあったと推測されている。また、その後の発掘資料を見る限り、鰹木と千木をセットで載せている宮殿はなく、「古事記の編纂時期においても、こういう建物は神社以外には考えられない」と自説を披露。では、現在の神社建築はいつから始まったのか、という議論が出てくるが、古墳時代後期になると家形埴輪もなくなり、よくわからないが、飛鳥浄御原宮の年に初めて伊勢神宮の遷宮が行われており「それ以前のどこかで、鰹木や千木という意識が神社を造る人の中にちゃんとあったことになる」と語った。

話題は考古学における地形復元へと移り、氷河期等の影響で大阪湾の広がりが1万年前から5000年前、そして2000年前とどのように変化してきたかを紹介。日本書紀に出てくる「浪速」という地の描写と、1500年前頃の大阪湾周辺の地形の様子が合致することから、日本書紀の記述は飛鳥時代かその直前くらいを舞台としていると解説。一方、古事記の記述を読み解くと、「古事記は日本書紀に書かれている状況より100年くらい前、古墳時代後期のころらしいということがわかってくる」と語る。

さらに「古事記に記されている自然環境や墓・家屋・器物などと、発掘調査資料を比較検討すると、神話・伝承の成立過程、あるいは加飾された時期が確定できそうである」と見通しを語る。なかでも加飾の始まりを調べるのは、考古学の得意中の得意であり、この物語はいつごろの状況を舞台にして書き上げられているかがわかることから「服装、髪型、武器などの研究から古事記、日本書紀が記述されたときのこともわかる」と今後の展開を示唆。
そのほか、古事記の偽書問題、その成立事情等にも触れ、「考古学の知識、出土品などを利用することで、古事記がどういう形でできたかということがわかる。それを、奈良の展覧会では見ていただくと、よりわかるのではないか」と締めくくった。

第2部 「大古事記展」のご紹介

『大古事記展』準備スタッフリーダーの谷垣氏から、展示内容の説明があった。
本展は、視覚、聴覚を中心に感じることを大切にした展示で構成。国宝2件、重要文化財14件を含む総展示数は122件、奈良県内外の古い神社などに伝わるゆかりの宝物から、現在活躍中のアーティストによる作品まで、バラエティに富んだ展示物を5つのゾーンに分けて展示。
 第1のゾーンは、古代の人々が紡いだ物語。『古事記』を3つのテーマ、創、旅、愛に分け、『古事記』の世界を絵画によりわかりやすく紹介。
 第2のゾーンは「古事記の1300年」で、『古事記』の不思議を解明する道筋を展示。『古事記』の編纂者である太安萬侶の墓誌、江戸時代に『古事記伝』を書いた本居宣長の肖像画や、往時の書物などをはじめとする展示により、形を変えながらも『古事記』が長く受け継がれてきたことを実感していただける。
 第3のゾーンは「古事記に登場するアイテムたち」。『古事記』ゆかりの考古品などを展示し、物を通してこれまでの展示で体験してきた『古事記』の世界に思いをはせていただける。例えば大阪府の遺跡から出土した漆塗りの櫛、纒向遺跡から出土した3世紀ごろの桃の種、神奈川県の古墳から発掘された古墳時代の琴を弾く男性の埴輪など、『古事記』に描かれた時代に存在していた本物の持つ力で、『古事記』の物語世界へのイマジネーションの翼を広げていただける。
第4のゾーンは「身近に今も息づく古事記」。奈良や関連県の『古事記』ゆかりの古い神社からお借りしたご宝物が並ぶ。当展覧会の目玉展示の一つ、『古事記』にその名前が最初に登場する神社、石上神宮の「七支刀」、大神神社の「子持勾玉」、春日大社の「禽獣葡萄鏡」など、普段は目にすることのできない貴重な宝物の数々で、時空を超えた『古事記』の魅力を発信。
第5のゾーンは「未来へ語り継ぐ古事記」。現代を生きる私たちが『古事記』から何を見いだし、それを後世にどう伝えていくかがテーマでに、日本モダンアート界の旗手である3組のアーティスト、山口藍さん、exonemoさん、トーチカさんたちが、『古事記』からインスピレーションを得て制作されたアート作品を楽しめる。

第3部 トークショー 「私にとっての古事記」

最初に森氏から石上神宮と古事記の関係を解説いただいた。
「古事記で最初に神社の名前として出てくるのが石上神宮(いそのかみのかみのみや)であり、神宮という称号で記されており、日本書紀にも同じように出てくる」と述べ、そのご神体である神剣・韴霊(ふつのみたま)のいわれを紹介。続いて、石上神宮のご神宝でもっとも著名な国宝・七支刀(しちしとう)について、西暦369年に朝鮮半島あるいは中国で作られ372年に日本に渡来、石上神宮が物部氏の氏神だったこともあり、様々なご神宝を保管・管理しており、この七支刀が現在も石上神宮に納められているとのこと。今回の大古事記展では、10月25日から11月24日までこの国宝・七支刀が展示されるので「ぜひ均整のとれた形をご覧いただき、災いや厄を打ち砕く力を持っている刀のちからを皆さんに確認いただき身につけていただければありがたい」とのメッセージとともに「七支刀は石上神宮のご神宝なので、本物を見られるのはたぶんこの機会しかないのでは」と、今回の展示の希少性を示唆。

天野氏から昔、石上神宮の境内で行われた発掘調査で見つかったものの性格・ご神体についての説明を求められ、禁足地から勾玉、管玉、琴柱形石製品、環頭大刀柄頭など400点近い出土品があり、それらが全部、重要文化財の指定を受けていることを紹介。「古墳時代前期のものだといわれている勾玉などは非常に素晴らしい色をしており、ぜひこの機会にご覧なっていただければ」と語った。

続いて、天野氏から里中氏へ「マンガ古事記を描くうえで一番こだわった点は」と質問が。里中氏は「史料のない時代をいかにそれらしく見せるかということに苦労した」と述べ、いろいろな調査・研究を参考したが、最終的には「私は学者ではないのだから、間違っていても大丈夫」と場内の笑いを誘った。そして、古事記そのものの編纂に関しても、いろいろな説のなかから一番納得しやすい表現に落ち着いたのではないかと想像しており、自分もイメージが伝わればいいと言い逃れをしながら描いた部分もあると発言。また、文章ならば「箸が流れてきた」ですむ部分も、絵にするときは箸を描かねばならず、当時儀式で使われたであろう箸を描いた。昔の道具について、素材や加工法などを気にしながら制作したと舞台裏を披露。

天野氏から、古事記など古い時代を描く作品で、具体的に人物を描かなければならない場合、どういうところから考案していくのか、と質問が。里中氏は「史料を調べたりするうちにイメージが出来上がってくるが、有名俳優や知り合いの人が浮かぶ場合もあれば、人間でなく賢そうな日本犬としてイメージがわく場合も」と創作の過程を披露。また「実在の人物の人柄を知るには万葉集が一番」とも。ただ、古事記に関しては「長い間この物語を大事にしてきた人たちのイメージがあるので、なるべくいい男、女に描きたいというのはあった」。また、天野氏が、マンガのなかに菅谷氏が登場していることを紹介すると、里中氏は、古事記に描かれた天照大御神の石屋隠れは日食ではない、という菅谷氏の話に得心のいくものがあり取り上げた、とのこと。

天野氏が、里中氏の作品の中には歌が多く出てくることを指摘し、歌への思いを質問。まず里中氏は、万葉集の例をひき、「たいていの歌は、現代の日本人でも音にして聞くと、日本語としてその心が伝わってくる。こんなにありがたい国はないと思う」と歌の普遍性を指摘。「歌というのは、美しい音、響きを天に向かって祈りのように伝える行為だったのでは」と思いを述べ、古事記においても、ここぞという場面ではどれだけ文字数が多くなろうともなるべく原音に忠実に大和言葉の歌が書き残されていることから、「その気持を大事に伝えなければならないという気になった」と発言。

その後、古事記に登場する印象的なエピソードをひきながら、登場する男性、女性それぞれの特質をどう感じたかをイキイキと語り、どのように古事記を楽しんで読んだかを披露。「時代を現代に移し、恋愛ものとかドタバタエピソードだと思って読めて実に身近で面白い。人の営みは何千年単位であまり変わらず、そういう楽しさも伝えたいと思って描いた」と語った。

一連の里中氏の発言に菅谷氏は「芸術家と僕らのように土掘りをしている人間は違う」と会場の笑いを誘い、自分は書いてあることは理解できるが、そこで止まってしまう、芸術家の方はそれが目の前で感情に出てくる、とアーティストならではの古事記の読みを称賛。

続いて、古事記が書かれた頃の倫理観とその後の倫理観には違いあるのでは、と天野氏から問題提議があり、当時、戦国時代、そして現代の倫理観を照らし合わせながら、各自が私見を述べ、また里中氏からはそれをどのようにマンガの場面に反映したのかを解説。

そして「私にとって古事記とは何か」を各氏がまとめられた。
森氏「古事記は非常に大らかに大きく物事をとらえることのできる存在であり、いろんな意味で古事記の神々から教えていただくことを私たちが守っていかなければならない」。

里中氏「他の国では神話と歴史が分かれているが、日本は同じ人たちがずっと暮らしてきて同じ家系が続いているから、神話・伝説と歴史がつながっており、それゆえデタラメだと烙印を押されたことに疑問を感じる。物語の真偽よりも、そういう価値観を私たちの先祖が持っており、アイデンティティ確立のために神話が必要だった。そして、古事記の記述に関して学術的な研究が進めば、もっともっとすてきな私達の先祖の暮らしが見えてくるのではないかと思っている」。

菅谷氏「古事記や日本書紀を考古学の立場から研究しなければならない。そうすれば、古事記をむやみに歴史書だと思うこともないし、荒唐無稽だということもなくなり、真実が浮かび上がってくる。また、古事記は、その難読性ゆえに、また各時代で思想的バックボーンに利用されるなど、不幸な書物であった。しかし21世紀になって、古事記は普通の本になっていく。そして、その中から宝物を探すという仕事を、3人の方から私に強いプレッシャーをかけられたのではないかと思う」。