記紀・万葉講座

平成30年度聖徳太子シンポジウム

日時・平成30年12月1日(土)
会場・桜井市民会館

3回目となる今回の「聖徳太子シンポジウム」は、「東アジアの文化と交流が導く日本の礎」をテーマとし、聖徳太子研究の第一人者である吉村武彦氏(明治大学名誉教授)の基調講演とパネルディスカッションなどが行われ、聖徳太子の時代の海外交流について活発な議論がかわされた。
イベントの後半は、川井郁子氏によるヴァイオリンと尺八奏者・小湊昭尚さんが共演したスペシャルコンサート「響き合う音、結び合う音」。伝統的な曲をアレンジした「さくらさくら」から始まり、オリジナル曲の優雅な演奏に聴衆は、酔いしれた。

プログラム
主催者挨拶 奈良県副知事 村田崇
第1部 基調講演「聖徳太子の時代と文化」
吉村武彦(明治大学名誉教授)

パネルディスカッション「東アジアの文化と交流が導く日本の礎」
〈パネリスト〉
吉村武彦(明治大学名誉教授)
河内春人(関東学院大学経済学部准教授)
海野啓之 (奈良県文化資源活用課) 
〈コーディネーター〉
関口和哉(読売新聞大阪本社)
 
第2部 スペシャルコンサート「響き合う音、結び合う音」
川井郁子(ヴァイオリン)と和楽器のコラボレーション

第1部

基調講演「聖徳太子の時代と文化」吉村武彦(明治大学名誉教授)

●推古朝とはどのような時代だったのか?
推古天皇は、日本で最初の確実な女性天皇である。当時天皇を選ぶのは、群臣の仕事。つまり新しい天皇の即位は群臣の推挙によるのである。そして新しい天皇の下、新たに群臣が任命される。つまり代替わりごとに役人が変わるというシステム。これが奈良時代と違う。
この時代の対外関係を見てみると、いわゆる5世紀の讃・珍・済・興・武という倭の五王の時期、王は新しく即位すると、中国に使者を派遣し、倭国王であることを認めてもらっていた。その書類を冊書といい、冊書で封じられるゆえに、冊封体制の名称がつけられている。 その後607年の遣隋使の派遣。『隋書』倭国伝では、厩戸皇子が送ったとされる国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と記され、「帝、之を覧て悦ばず」「蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞することなかれ」とある。ここで何が問題であったのか。それは同格の天子号を倭国が名乗ったこと。中国から見ると、当時の日本は東夷の国、それが同じ称号を名乗ることが、我慢できなかったのである。私はこれを聖徳太子の仏教の師に当たる高句麗の僧、慧慈の影響ではないかと考えている。つまり5世紀の従属的外交、あるいは朝貢する外交から対等外交を意図したのだ。なお『隋書』倭国伝には、倭国の王が男と記されているが、女性の推古天皇の代わりに、厩戸皇子が使者と会うなどし、外交交渉等全般を担っていたのではないか。

●厩戸皇子の生い立ちについて
厩戸皇子の生い立ちは、父が当時隆盛を誇った蘇我系の用明天皇、母も蘇我系の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)の子であることが肝要である。それ故、皇位を継ぐべき人物、つまり太子であることは間違いない。 聖徳太子の伝記的な『上宮聖徳法王帝説』という重要な史料がある。2013年には奈良大学名誉教授の東野治之さんの校註で岩波文庫版『上宮聖徳法王帝説』が刊行された。この史料名で、問題は「帝説」という文章。常識で考えると帝説というのは帝紀のこと。天皇でもない聖徳太子の伝記を帝紀と称するのは一体どういうことなのか。岩波文庫版で東野さんも記しているが、聖徳太子論のためには、この『上宮聖徳法王帝説』の研究をさらに進めていかなければならない。

 

●厩戸皇子と「まつりごと(政事)」
政事に関しては『上宮聖徳法王帝説』に、厩戸皇子と蘇我馬子の二人が、「共に天下の政を輔けて、三宝を興し隆え」た。「元興と四天皇(四天王)の等き寺を起つ」と書いてある。つまり厩戸皇子の伝記には、推古天皇の下で馬子と一緒に政事を執り、仏教を栄えさせ、寺をも建てたと記してある。 厩戸皇子の事績の一つ、憲法十七条では、君(王)と群臣、そして民である百姓、この三者間の人間関係や道徳、社会規範を説いている。第1条の、和の精神。これは第十二条にある、国に二人の君あらずという、王の絶対性を前提にしたもの。会社に当てはめると、会長と社長がことごとくけんかする、それは駄目なんだということ。重要なのは、第十三条で、「諸の官(つかさ)に任せる者、同じく職掌を知れ」とある。これは新たな官、官司の世界が想定されているのではないか。馬官(交通制度)、寺司(寺院・僧尼の管理)、祭官など、多くの官がこの時期にでき始めた。

●推古朝における「聖徳太子」
以上の点などを踏まえ、推古朝における聖徳太子をどう位置付けるか。 私は、太子という名称があることからも、天皇の後継者として認めて良いと考えている。ただ推古天皇が長生きし、本人が生存中に厩戸皇子が死んでしまう。それ故、後継者になれなかったということが、実情ではないか。今後も実在の厩戸皇子の事績と、没後の聖徳太子信仰、それを区別して、実像がどういうものであるかということを明らかにする必要がある。

第1部1第1部2

パネルディスカッション「東アジアの文化と交流が導く日本の礎」
〈パネリスト〉
吉村武彦(明治大学名誉教授)
河内春人(関東学院大学経済学部准教授)
海野啓之(奈良県文化資源活用課主査)

--------基調講演をうけて、聖徳太子の時代と文化について改めて伺いたい。

◆河内春人
推古朝という時代のキーワードとして、文明化という言葉が思い当たる。それを象徴的に表しているのが仏教と国づくり。仏教は当時宗教のみならず、科学技術の総体という性格を持っていた。例えば寺院を造るだけでも、建築技術、壁画を描くための絵具の調達、瓦を焼く技術などが必要。国づくりでは、十七条の憲法や冠位十二階に代表される国の組織づくりなどが本格的に始まる。そして君・臣・民という三つの階層が明確に意識されるようになった。こうした国のグランドデザインを考えた重要人物の一人として聖徳太子を位置付けることができる。

◆海野啓之
日出処天子という説明のところでは、日が昇る処が東を表し、日が没する処が西側を表している、と話があった。さらに解説すると、日が昇って落ちるというところは、須弥山を中心とする仏教的な世界観の中で説明される。隋と大和の国は、そうした仏教的な知識が共有されているというところが非常に重要だ。

--------東アジアと日本の交流について?

◆河内春人
589年に隋が中国大陸を統一した。特に重要なのが598年で、統一に危機感を抱いていた高句麗と隋が軍事的に衝突する。それは倭国にも影響した。『日本書紀』の記録には残っていないが、『隋書』倭国伝には記されている600年の最初の遣隋使は、この国際紛争に対して隋を無視するのは得策ではないという判断の中で送られたと考えられる。この時の遣隋使が隋で先進的な都や文明を見たことで、倭国も文明化しなければならないという意識が急速に高まったのではないか。

◆海野啓之
仏像の伝来を考えると、小金銅仏の舶載は、仏像伝播を象徴する。中国との交流という観点から言うと、木彫仏の問題もある。飛鳥時代の仏像は、すべてクスノキ材で作られている。平安時代以降に広まった今日の木彫像は、奈良時代の鑑真が木彫の文化を持ってきて、檀像の代用となる木、それが日本ではカヤ、後にヒノキになった。飛鳥時代のクスノキが外来的な影響なのか、それとも日本独自の文化的なものなのか、問題のひとつだ。

◆吉村武彦
中国と陸続きの高句麗やベトナムは、対抗意識が強かった。それに対し、海で挟まれた日本は、仏教や文物を素直に取り入れた。例えば渡来系の人たちが日本に来ることにより、文字が入ってくる。もちろん今と違い技術だけではだめなので、人が同時に入ってくる。つまり文明化ということをプラス思考で考え、行ったというのが、非常に事実に近いのではないか。

-------聖徳太子の事績と推古朝について

◆吉村武彦
推古天皇が蘇我系で、甥の聖徳太子も蘇我系である。だからといって蘇我氏の言いなりかというとそんなことはない。推古がいて、群臣の馬子がいて、太子は斑鳩宮で政務をすると。年齢差から言うと推古天皇が早く亡くなる当然な時代だったと思うのだが、ところが太子がかなり早く死んでしまった、その影響が大きかった。

◆海野啓之
聖徳太子が仏教を主導していた時代に造仏を担った人物として止利仏師がいる。止利は飛鳥寺の造仏を担ったが、金銅仏と繍、縫い物の仏という2種類の仏像を作っているところが重要な点。止利式の様式は、蘇我氏の滅亡とともに消えていく。それは担い手がいなくなった部分と、対外的な情報量が増え流通し、いろんな様式の仏像が増えたという時代的な変化が想定される。

◆河内春人
聖徳太子の派遣した遣隋使は、隋の儀式に参加し、そこで他の外国の使節に接触した可能性がある。それ自体は倭国の政治に直接的な影響を及ぼすというレベルではないが、世界の広がりという点で、徐々に中国のみならずその向こう側の国々が意識されるようになり始めていたかもしれない。

シンポジウムのまとめ

◆吉村武彦
この時期をどうとらえるか、推古朝以前の日本は原始的、プリミティブな社会だった。それが仏教も含めた渡来的な文化によって、文明化していく。聖徳太子も、斑鳩宮のほか、斑鳩寺、四天王寺と先駆的な瓦屋根の寺を順に作った。しかし、飛鳥寺の西側に神様の依代(よりしろ)の木があるように、神仏が並立している。日本は聖徳太子の時代から、寺の横に神祇信仰の場所もあるという神仏の世界が作られたということも忘れてはならない。

◆河内春人
文明化という視点で推古朝を見るとき、聖徳太子の果たした役割が特に明確になる。なお、仏教が一番重要なポイントであることは間違いないが、それだけではなく太子は儒教について詳しかった点にも注目したい。仏教や儒教を兼ね備えた聖徳太子が現れた背景には、やはり当時の国際関係というのを抜きにしては語れない。推古朝というのは、隋の統一というインパクトから生じた東アジアの変動を背景に、日本が国家形成に向けて動き出していく時代だった。

◆海野啓之
隋は、国家的な仏教政策をし、その象徴として全国に舎利塔を起塔した。その時期と600年と、607年といった遣隋使の時期が重なる。遣隋使は、特に寺や塔をどういう所に建てるのかといったロケーションの問題をどう知り得たのか。中国と日本の仏教的な世界観というものがどういうふうに実現されたのかなど、まだまだこの時代について興味が尽きない。

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第2部

スペシャルコンサート「響き合う音、結び合う音」
川井郁子(ヴァイオリン)と和楽器のコラボレーション

華やかな王朝風衣装に身を包んだヴァイオリニスト・川井郁子さんと、尺八奏者・小湊昭尚さんが共演した、スペシャルコンサートでは、素晴らしい演奏だけでなく、合間には法隆寺に「聖徳太子が尺八を吹いた」ことを記した文献があるというエピソードも披露された。聖徳太子と楽器や音楽を通した海外文化との交流がはっきりと感じられる素晴らしいステージだった。

第2部1第2部2