記紀・万葉講座

蘇我蝦夷・入鹿の人物像を探る

記紀を語る講演会  明日香村

2019年2月2日(土)13時00分~14時30分
会場・奈良県立万葉文化館
講師・学習院大学講師 遠山美都男 氏 
演題・「蘇我蝦夷・入鹿の人物像を探る」


 

講演の内容

本日は蘇我蝦夷とその子である入鹿の人物像という従来の文献史学では正面からは取り上げられてこなかった問題についてお話したいと思う。

645年の乙巳の変で逆賊として滅ぼされた蘇我蝦夷と入鹿に関しては、一般的に冷酷で悪逆非道といった人物像が語られがちであった。
だが、記紀をはじめとした関連史料を丹念に読み解いていくならば、それとはおよそ異なる人物像が浮かび上がる。
まず、蝦夷については『日本書紀』の舒明天皇の即位前紀にその人柄を窺がえる記述が残されている。
我が国最初の女帝、第33代推古天皇が崩御した時、後に舒明天皇となる田村皇子と、その母が蘇我馬子の娘である山背大兄王が推古後継の座を争うことになった。
この時、大臣(おおまえつきみ)の地位にあった蝦夷は、甥にあたる山背大兄王ではなく田村皇子を後継者として後押した。 さらに山背大兄王を支持した一族の長老、境部摩理勢をその手で滅ぼした。そのため、通説では、蝦夷は山背大兄王に悪意を抱いており、その即位を殊更に妨害した悪人だと見なされてきたのである。

この問題を考える大前提として理解してもらいたいことは、舒明即位前の紛争記事を含む『日本書紀』が舒明天皇の息子である第40代天武天皇によって編纂が開始(681年)されており、天武にとって、この舒明即位の事情は自分自身の即位の正当性に関わる重要な問題であったということである。
そこでは舒明即位の正当性が殊更に強調するはずであり、結果的に舒明即位を推進した蝦夷を悪く書くはずがないと考えられる。
その点をふまえ推古が田村・山背大兄の二人に伝えた遺言を読み直してみる必要がある。通説では遺言はどちらを次期天皇とするのか曖昧なもので、それが混乱のもとになったとされてきた。
しかし、推古は田村には即位にあたっての心構えを説くのに対し、山背大兄王には皇位への望みを戒めている。
さらに、大臣の蝦夷の部下である重臣らに推古の遺言を披露した時に、大伴連鯨という重臣が推古の遺言に従うならば次期天皇は田村で決定であり多言を要しないと述べたことが留意される。
推古は明らかに田村の即位を指示しており、山背大兄王には今回は即位の望みを見送るように説諭している。蝦夷は終始一貫、推古の遺言を遵奉する姿勢を崩さなかったといえよう。

実は、推古以前、天皇は次期天皇の指名、決定権をもたず、天皇崩御をうけて大臣に統括された重臣らによって次期天皇は選出・決定されていた。
推古は半世紀にわたって権力の中枢にあり続けたため、史上初めて天皇として次期天皇を指名・決定できたのである。
このような従来の慣行によるならば、蝦夷は推古天皇の遺言など無視して、重臣らによって次期天皇を決定することも可能だったはずである。
ところが、蝦夷は推古の遺言に最大限の敬意をはらい、それを尊重・遵奉する態度を選んだ。そして、前天皇の遺言の承認に向けて重臣たちの意思を統一する方向に全力を注いだのであった。
蝦夷は山背大兄や推古の遺言に従わない一部の重臣らに向かい、「天皇の遺言を間違って解釈してはならないのだ」「個人的にどちらかの候補を贔屓してはいけない」と懇切に説明を繰り返し、ついに彼らの説得に成功している。

これらのことから、多少の粉飾は否定できないものの、大臣という天皇の執政を支える重職に忠実かつ厳正な態度を貫いた蝦夷の人物像が浮かび上がってくるのではないだろうか。 なお、蝦夷は山背大兄が推古後継として即位することは考えていなかったが、個人的には血を分けた山背大兄が将来天皇となることに期待を寄せていることを忘れてはならないであろう。



つぎに蝦夷の息子である入鹿についてのこされた史料は極端に少ないが、『家伝』(藤氏家伝)の上巻、鎌足伝のなかに若きの日の入鹿像が描かれていることは有名である。
蘇我氏の御曹司入鹿は、後に彼を倒すことになる中臣鎌足(後の藤原鎌足)と共に、中国への留学経験の長い僧旻の塾に通って周易を学んで俊秀の名をほしいままにしていたという。
ある日、入鹿は遅れてきた鎌足に対等の礼で着席をうながしたとある。これは入鹿が鎌足に一目置いていたということで伝記類の常套表現にすぎない。
僧旻が「この塾に通う者で入鹿の右に出る者はいない。されど、鎌足はそれに勝るとも劣らない」と告げたとあるのも、鎌足を持ち上げるのが主旨の鎌足伝であれば当然の記述であろう。
この記述自体の信憑性であるが、多くの研究者が、乙巳の変で鎌足に討たれた入鹿が、藤原氏(南家)の家伝でこのように優秀な人物であったと描かれているのは、それが否定しがたい事実であったためであろうとして史実性を容認している。

だが、鎌足伝を書いた藤原仲麻呂(恵美押勝)の存在に着目するならば、それは疑問であろう。
鎌足の曾孫である仲麻呂が鎌足伝を書くにあたって、およそ40年前に完成した『日本書紀』の該当部分を参照したことは間違いない。
しかし、『日本書紀』には僧旻の塾におけるエピソードは見られない。仲麻呂が『日本書紀』以外の先行史料をもとにして書いたという可能性も否定できないが、それは乏しいと考える。
なぜならば、このエピソードが仲麻呂の創作である痕跡が鎌足伝のなかに窺えるからである。
それは、入鹿が、山背大兄を討とうと呼びかけたとされるくだりで、入鹿は協力者たちに「今、天皇が崩御し、その皇后が正式に即位しないまま権力を握っている。このような状態が続くと大乱が起きる可能性がある。」と語ったとされる。ここに見える崩御した天皇とは舒明天皇のことで、その皇后は後の第35代皇極天皇(斉明)を指すのは明らかだが、『日本書紀』には皇極天皇が正式に即位をせず、称制を行っていたとは記されていない。
また、鎌足伝でも上記の部分以外では皇極は正式な天皇だったとされている。
仲麻呂がこの記事を書いた時に、皇極を彼が知るある人物に重ね合わせていたのではないかと考えれば、この矛盾が解決できよう。 仲麻呂と同時代に生きた人物で、即位せず天皇権力を行使した皇后といえば、一人しかいない。仲麻呂の叔母であり、彼の権力の源でもあった光明皇后(皇太后)である。
このように仲麻呂は鎌足伝を執筆する過程で登場人物に彼と同年代の人物を投影するクセがあったことが明らかになる。

そうだとすれば、鎌足伝の主人公、鎌足は当然のことながらその曾孫仲麻呂が投影されているのであろう。
舒明天皇=聖武天皇、蘇我蝦夷=橘諸兄(聖武天皇の重臣)、山背大兄=淳仁天皇(仲麻呂に擁立された天皇)、という図式になろうが、問題の入鹿のモデルになった人物が誰かといえば、それは橘諸兄の子奈良麻呂だったのではないだろうか。
奈良麻呂は仲麻呂の従兄弟であり(いずれも藤原不比等の孫)、最後は仲麻呂権力の打倒を期してクーデターを企てるが、失敗して刑死している。
仲麻呂と奈良麻呂は従兄弟同士とはいいながら年齢差が父子ほどもあり、二人が机を並べて勉学に励んだことはなかったが、それぞれ若き日に学問に打ち込んだことがあった(仲麻呂は理科系、奈良麻呂は文科系)。
僧旻の塾における鎌足と入鹿の交流のエピソードは史実を正確に伝えたものではなく、『日本書紀』に見える鎌足が中大兄皇子と共に中国帰りが学者、南淵請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の策を練ったという記事をもとに、自身と奈良麻呂との関係を投影させて創作されたものだったと見なすのが妥当であろう。
入鹿は稀代の秀才であったとする鎌足伝の記述を鵜呑みにして入鹿像を構築するのは根底から見直されねばならない。

記紀を語る1


プロフィール

【講師プロフィール】
学習院大学講師:遠山美都男
1957年東京都生まれ。1981年、学習院大学文学部史学科卒業。1986年、学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士後期課程中退。1997年、学位請求論文「古代王権の形成と大化改新」により学習院大学より博士(史学)を授与される。現在、学習院大学、日本大学、立教大学、各非常勤講師。著書に『壬申の乱』『天皇誕生』(中央公論社)、『白村江』『天皇と日本の起源』(講談社)、『敗者の日本史1大化の改新と蘇我氏』(吉川弘文館)『蘇我氏四代』(ミネルヴァ書房)など。