記紀・万葉講座

考古学から考える聖徳太子墓
-叡福寺北古墳と岩屋山式石室

記紀を語る講演会  王寺町

2019年2月24日(日)13時00分~14時30分
会場・王寺町地域交流センターリーベルホール
講師・関西大学非常勤講師 今尾文昭 氏
演題・「考古学から考える聖徳太子墓-叡福寺北古墳と岩屋山式石室」


 

講演の内容

今日は、考古学・歴史学の立場からの聖徳太子の実像を迫るというテーマだが、太子の実像を究明するのは大変難題である。現在、叡福寺北古墳(大阪府太子町)を聖徳太子墓としている。考古学の立場から、その位置づけを皆さんにお話したいと思う。

用明大王(在位585~87)と穴穂部間人王女の子が厩戸王子(以下、聖徳太子)である。同時代人に押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、蘇我馬子がいる。聖徳太子墓を考える時、同時代の有力者がどこに葬られているかを考察するのが考古学のアプローチのひとつである。
叡福寺北古墳の場所は、奈良方面から竹内峠を越え現在、孝徳天皇陵となる山田上ノ山古墳や用明天皇陵となる春日向山古墳を経て、さらに、西に行くと叡福寺がある。境内の階段をのぼった奥に墳丘があり、そこが叡福寺北古墳である。私はこの階段も古墳の一部だと思っている。頂上から南に開けた地形だが、古墳を設けるには、先ず平らな土地造成が必須である。そのため大規模な地形改変がある。さらに終末期古墳の特徴となる南面する下段がここにあると考えている。
叡福寺北古墳の棺は、三棺あり側面に格狭間(=仏壇などによく使われる)を意匠した棺台をもつ。漆塗りの木棺のなかでも、最上位の夾紵棺が載せられていたと見られる。奥が穴穂部間人、東側が聖徳太子、西側が妃の棺とされるが、これは中世の太子信仰の興隆の中で、「三骨一廟」(阿弥陀三尊に結びつけ、三人を一つの墓に葬る)とした後付けによるという説がある。つまり棺自体が、他所から運ばれて来て、「信仰」を整えたという考えがある。

この古墳の石室は岩屋山式と呼ばれる石室である。横穴式石室の変遷を考古学の方法で分類、編年したうちの「岩屋山式」と呼ばれるもので、その先行型式が、明日香村の石舞台古墳を標識とする「石舞台式」の石室である。わたくしは、叡福寺北古墳の立地状況や梅原末治氏が復元した石室の構造、また墳形や棺から考えると、聖徳太子墓と断定するにまだ課題があると考える。その理由として、『日本書紀』推古20年(612年)2月20日条「檜隈大陵(欽明陵)への堅塩姫の改葬。軽術での誄。」や推古28年10月条「砂礫を檜隈陵上に葺く。氏毎に大柱を域外の山上にたてる。」の記事があるが、政権中枢の聖徳太子は、これらの件に当然関わっているはずであり、檜隈大陵、檜隈陵が丸山古墳(橿原市)、梅山古墳(明日香村)のどちらにあたるにせよ前方後円墳。つまり、大王位に就いた人物が前方後円墳に葬られたことを知っていたはずである。墳形や規模が、社会的地位を反映した時代を身近に知っていた。いかに有力な王子とはいえ、欽明大王から二世王の自身の墓がどのようなものかも判っていたはずである。さらに、太子は622年に亡くなり、その4年後に大臣で蘇我氏本宗の馬子が「桃原墓」に葬られるが、桃原墓が石舞台古墳とみる定説からすると、先ほどの編年と矛盾する。

2008年、宮内庁書陵部の調査による石室入口の報告写真を見ると、以前の認識より、実際の羨道はもっと長くなることがわかった。直線的で、加工された石材による二段構造を持ち、これにより羨道部の構造も1石ではなく、2石だと考えられる。先端の天井石は屋根形で、端面とその上部に斜面をもつことなどもわかった。岩屋山古墳(明日香村)と叡福寺北古墳の石室の共通性が改めて確認された。岩屋山古墳の玄室は、奥壁が二段で、側壁は下段が三石、上段が二石の二段、天井は一石、羨道部前半は上段に横長の石材を用いた二段で構成される。以前は、叡福寺北古墳の石室全長が12.7mほど。岩屋山古墳のおよそ17.8mと比較するに小さいとされていたが、この調査により全長15m近くになることがわかり、岩屋山古墳とも大差がないことがわかった。
一方、岩屋山古墳と石舞台古墳の石室図を見比べると、奥壁は二段だが、側壁は岩屋山古墳が二段、石舞台古墳が三段であり、岩屋山古墳は天井が低い。さらに、石舞台古墳は一部加工の自然石、岩屋山古墳は加工石である。共に花崗岩の巨石を使いながらも、石材の加工具合や石室の構造が違う。二つの古墳は、時期が違うと見ざるを得ない。
622年に亡くなった太子の墓とされる叡福寺北古墳と626年に亡くなった蘇我馬子の墓となる石舞台古墳の石室型式がわずか3~4年の差で、これほどに変わることがあるだろうか。叡福寺北古墳は、奥は石棺の可能性もあるが手前二つは漆塗り木棺である。格狭間をもつ棺台の構造は7世紀後半のものだ。

もし、叡福寺北古墳が聖徳太子墓でないと考えた場合、それは孝徳大王の陵ではないかと思う。太子から次世代の人となる田村王子、すなわち舒明大王を被葬者とみる桜井市の段ノ塚古墳は、八角墳。墳丘上半に石室があるのではないかとみられ、叡福寺北古墳に似る。現在、東西50m、南北43mほどの三段築成の円墳とみなす見解が有力だが、発掘調査によったものでない。いずれ叡福寺北古墳の墳形を確定しなければならない。
私は、1996年に叡福寺北古墳を八角墳とする可能性を示し、2005年に八角墳ならば、孝徳大王がほんとうの被葬者になると著した。それは舒明大王以降の大王、天皇の陵墓は、正八角形になることが原則とわかっているからだ。鎌倉時代の文献に拠らないと叡福寺、すなわち聖徳太子の御廟寺は登場しないとする研究がある。また、所在不明の聖徳太子墓を探した史料もある。
今日の太子信仰からすれば違和感を覚える方がいるかもしれないが、これら史料を含めた多方面からの分析を総合しなければ、簡単に「聖徳太子墓」の実際はわからない。まるで、太子から「現代」に向けられた謎かけのように私には思われる。

記紀を語る1


プロフィール

【講師プロフィール】
関西大学非常勤講師:今尾文昭
1955年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒業。博士(文学)。専門は日本考古学。1978年奈良県立橿原考古学研究所入所、学芸課長、調査課長を経て、2016年定年退職。現在、関西大学非常勤講師。主な著書に、『律令期陵墓の成立と都城』、『古墳文化の成立と社会』(ともに青木書店)『古墳空中探訪』奈良編・列島編(新泉社)など。