記紀・万葉講座

神武天皇と闕史八代

記紀を語る講演会

2018年12月8日(土)13時00分~14時30分
会場・奈良県橿原文化会館 小ホール
講師・関西大学非常勤講師 若井敏明 氏
演題・「神武天皇と闕史八代」


 

講演の内容

第2~9代目の天皇は事跡の記載が一切ないために闕史八代と呼ばれ、存在しないとする説が強く、神武天皇も実在性が疑わしく、「第10代崇神天皇」を初代天皇とする説が長らく有力だったが、はたしてそうだろうか。むしろ最近の纏向遺跡の発掘によって、神武天皇や闕史八代を踏まえないと日本古代国家成立が考えられない時代にきているといえる。記紀には「第11代垂仁天皇」と「第12代景行天皇」の王宮が纏向にあったと明記されており、私も含め、崇神天皇の王宮も纏向だとの見解もあって、纏向遺跡の発見によって記紀の信憑性が高まってきているからだ。
崇神朝の遺跡とされる箸墓古墳からは「布留式」土器が発掘されていて、崇神から景行天皇は「布留式」の時代に相当するが、纏向遺跡からは「庄内式」から「布留式」に至る土器が発掘され、箸墓より古い墳丘墓も複数確認されている。つまり、纏向には崇神天皇よりも古い時代から王がいて王宮が営まれていたと推測されるのであって、記紀の信憑性が高まったこととあいまって、いまや崇神以前、つまり神武天皇や闕史八代を学術的な対象とせざるを得なくなっているのである。

闕史八代が信用できない根拠に「一系の系譜(親子の系譜)」が続いていることがあげられることがある。しかし、闕史八代の婚姻記録によれば、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇のキサキは、全て磯城(三宅町や田原本町辺り、おそらく纏向遺跡あたりも)県主の葉江という人物に関係のある娘で、とくに第3代、第5代、第6代の天皇のキサキは姉妹だとある。系譜通りなら、これは曾祖母と自分の妻が姉妹ということになってしまう。一系の系譜が先にあるのであれば、このような不自然な婚姻関係を作るはずがない。系譜は婚姻伝承よりも後に作られたのであって、王名やキサキについての伝承は系譜よりも古いのである。それがひろく信じられていたから、闕史八代の天皇を親子で結んだあとも、不自然なものであるのにもかかわらず、記しとどめられたのだろう。つまり、一系の系譜という不自然な関係だから架空だという論理は成り立たないのである。おそらく、ごく初期の天皇については、続柄や血縁より名前(とキサキの情報)のみが重要だった時代があり、後、おそらく崇神天皇の時代頃に、その系譜が問題となってきたのだろう。となれば、神武天皇や闕史八代の時代を考えるには、まずその名前が重要になってくる。

闕史八代の天皇の名前に注目すると、「ヤマト」という名前が度々登場する。「ヤマト」は「日本」のことであるから初期に出てくるのはおかしいという説もあるが、例えば、第3代安寧天皇の和名「シキツヒコタマデミ」の「シキ」は磯城という地域の名前である。であるなら「ヤマト」も日本全体ではなく、地域の名称と考えるべきではないか。「ヤマト」はもともと天理市や桜井市のごく狭い地域を指しており、それが勢力の拡大とともに、日本全体を指すことになった。闕史八代にある「ヤマト」はその狭義の「ヤマト」を指している。この「ヤマト」には纏向遺跡も含まれているから、箸墓以前の墳丘墓に闕史八代の陵墓があってもおかしくないと私は考えている。

このようにみると、天皇の名前から初期ヤマト政権がどの辺りを治めていたかがわかってくる。神武天皇は「イハレ(桜井市の南あたり)」を治め、第2代はヌナカワ(場所不明)、第3代はシキ、そして、第4代の時代からは狭義の「ヤマト」、纏向遺跡あたりを治めるようになったのだろう。さらに第5代にみえる「ミマ」が三輪を意味するとすれば、まさに纏向の地である。もしそうなら、第10代の「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」は三輪に強靭な城を作ったという意味と思われ、このように考えると天皇の名前からどのような地域を治め、勢力を拡大していたかが具体的にわかるのである。

次の問題は「イハレヒコ」、神武天皇のルーツはどこかである。もとからイハレの狭い地域を支配していたと言えるかもしれないが、私は九州からの東征を再評価したい。これを疑問視する研究者も多いが、その先駆は津田左右吉先生である。明治・大正の研究者は、神武東征の史実をある程度、認めていたが、津田先生は神武東征伝説や初期天皇の史実性を否定した。そのため戦時中に右翼に訴えられ、裁判で有罪にもなる。ところが津田先生は神武東征について大きく態度を変えている。つまり、1913年に書いた「神代史の新しい研究」では、神武東征は十分に考察の価値ありと述べ、日向から出港したことは怪しいが、狭義の筑紫地方であったことは疑う余地はないとしていたのに、1919年の著書では、未開の地である九州南部が皇室発祥の地とは考えられないと、学説を一変させた。その真意が有罪判決をうけて控訴した時の上申書からわかる。神武東征を認めたら九州から東征した天皇家がヤマトを征服したということになり、天皇は征服者になる。つまり、皇室の尊厳を損なうことを危惧して、神武東征否定説に至ったのである。このように津田先生の東征批判説には政治的な思惑が隠れているので、むしろ初期の津田説に取るべき点があると私は思う。

ただし、東征ルートの日向、宇佐、岡水門という行程は不自然である。私は狭義の筑紫地方にあたる博多湾近郊に神武天皇のルーツがあるのではないか。おそらく博多湾近郊から岡水門、宇佐、瀬戸内海というルートで神武天皇は移動したのであろう。また、大和平定のルートは、古事記が記す紀ノ川沿い(男之水門→熊野村→吉野川の河尻→阿陀→吉野→国巣→宇陀)に上ったルートが妥当だろう。

東征のあと、神武天皇はイハレ(桜井市の南あたり)の辺りを統治していた。では、橿原神宮がある、橿原の地は何があったのか。初期ヤマト時代、葛城一帯はカモ一族の勢力圏であった。そのため、神武天皇は宇陀まで廻って、奈良盆地にたどり着いたと私は考える。その巨大勢力であったカモ一族とヤマト政権の境界が親衛隊の久米が配置されたと思われる橿原西方であり、橿原はいわば初期ヤマト政権の西の最前線であり要所であった。そのような橿原の重要性が時代を経て、王宮があったという伝承に至ったのではないか。橿原市に神武天皇の王宮があったというのは考えにくいが、それでも神武天皇にとって橿原は重要な場所であったことは間違いないと私は思う。

記紀を語る1


プロフィール

【講師プロフィール】
関西大学非常勤講師:若井敏明
1958年奈良県生まれ。大阪大学文学部国史学科卒業。関西大学大学院博士後期課程単位修得。現在、関西大学・佛教大学等非常勤講師。 記紀の伝える情報を積極的に活用した古代史研究の可能性を模索中。主な著書に『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(吉川弘文館)、『仁徳天皇 煙立つ民のかまどは賑ひにけり』(ミネルヴァ書房) 、『「神話」から読み直す古代天皇史』(洋泉社)など。