ドラマ日本書紀Ⅱ 事始のものがたり 第1話 ~暦のはじまり~
わたしは、人呼んで事始(ことはじめ)の博士。ここ奈良は日本の始まりの地といわれておるが、実にさまざまな物事がここで始まったのじゃ。さあ、これから、物事の始まりについて、ひとつずつ語って進ぜよう。
最初は暦(こよみ)じゃ。
いまの感覚では、暦、つまりカレンダーはまるで空気のように、あって当たり前のものだと思っておるじゃろう。だが改めて考えてみると、今日は何月何日なのか、みんながばらばらに考えていては大変なことになる。学校も会社も、なによりひとつの国が成り立たなくなるのじゃ。
日本では、もともと朝鮮半島の百済から暦というものが伝わったようで、『日本書紀』には、欽明天皇14年、西暦でいうと553年の6月のできごとを記したところに、初めて「暦」という言葉が出てきておる。そこには、百済からの要請に応じて馬や船を送る見返りに、百済から日本に派遣されている医博士や易博士、暦博士を交代させること、また、薬などといっしょに暦本を送るよう依頼した、と記されておるのじゃ。
それから約50年後の記事にも暦について書かれてある。推古天皇10年、西暦602年10月のことじゃった。
ときの天皇は女帝・推古天皇。
賢いことこの上ない甥の聖徳太子が摂政として、天皇の政治を助けておられた。
かねてより、おふたりはこんな会話をしていたのじゃ。
「このたび百済からお見えになった観勒(かんろく)というお坊様からの贈り物の中に、暦本がありましたね」と天皇がおっしゃると、
聖徳太子は、「暦は、これからの日々がどのような吉凶をもつのか、また、どのように季節が巡っていくのかがまとめてあるもので、先々の予定を立てる上で大変役に立ち、国をひとつにまとめるためには欠かすことができないものです。現在の我が国では、百済の国の暦を借りておりますが、いつまでもこのままではいけません。その国ならではの暦を定めてこそ、ひとつの国として成り立ち、外国からも認められるのではないでしょうか」と諭すようにお答えになった。
「なるほど」と深くうなずいた天皇は、このとき、優秀な書生を3、4人選び、観勒のもとで学ばせることを決められたそうじゃ。
選ばれたのは、玉陳(たまふる)。これは陽胡史(やこのふびと)の先祖であり、暦法を教わった。
大友村主高聡(おおとものすぐりこうそう)は天文・遁甲(とんこう)と呼ばれる、占術について学んだ。
山背臣日立(やましろのおみひたち)は方術(道士の術)を学んだ。
いずれも優秀で、しっかりと学びとり、日本で本格的に暦が使われるようになる上での礎となったんじゃよ。
※人名地名の読み方は『新編 日本古典文学全集』(小学館)を参考にしています。
日本最古の暦の木簡(具注暦木簡)
飛鳥時代の迎賓館跡とされる石神遺跡(明日香村)から、平成4(2002)年に発見された木簡に、持統3(689)年の暦が表と裏に元嘉暦(げんかれき)で一週間分ずつ記されている。壁につるすなどしてカレンダーとして用いられ、使用後に容器の蓋などに転用されたものと推測されている。
住所/ 高市郡明日香村飛鳥
交通/ 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス「甘樫丘」下車
雷丘(いかづちのおか)
雷丘を含み、その東方に広がる雷丘東方遺跡は、推古天皇の小墾田宮のあった地ではないかと考えられている。昭和62(1987)年に「小治田宮」と記された奈良時代の土器が出土したことから、推古天皇の小墾田宮も同地にあった可能性が高まった。
住所/ 高市郡明日香村雷
交通/ 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス「飛鳥」下車
元嘉暦と儀鳳暦について
どちらも中国の暦。月の満ち欠けを基準に作られた太陰太陽暦の1つ。日本では飛鳥時代に、元嘉暦(げんかれき)が百済を通じて伝わった。この暦は中国の宋(南朝)の時代、元嘉22(445)年から65年間使用された。その後、改正され、唐の時代の麟徳2(665)年から64年間、儀鳳暦(中国では麟徳暦と呼ばれる)が使われた。日本では、持統4(690)年から元嘉暦と儀鳳暦が併用された後、文武元(697)年からは儀鳳暦が正式に採用されたことが『日本書紀』の記述からうかがえる。