第5話 これを飛鳥浄御原宮という~天武天皇の即位~
大友皇子が自決し近江方面での戦局が決したころ。
大海人皇子軍の将軍 大伴連吹負(おおとものむらじ ふけい)は、倭(やまと)の地をすっかり平定し、この方面での戦局も決する。その後吹負は、二上山の北側の大坂を越え、難波(なにわ)の地をおさえる。それ以外の将軍たちは倭(やまと)から各々上つ道(かみつみち)、中つ道(なかつみち)、下つ道(しもつみち)を北へ進んで、山前(やまさき)に行き着き、淀川の南に陣営を張った。
将軍の吹負は、難波の小郡(おごおり)で、これより西の国司らに命じ、租税をおさめる正倉(しょうそう)や兵庫(へいこ)の鍵、駅鈴(えきれい)等を進上させ、西国を掌握した。
七月二十四日、乱後の処分がはじまる。将軍たちは、近江朝の左大臣や右大臣をはじめ、罪人たちを探し出し、捕えた。
二十六日には、大海人皇子がおられる不破宮(ふわのみや)に向かい、すでに自決していた大友皇子の首を献じた。大海人皇子の心情はいかばかりであったろうか。
翌月八月二十五日。
大海人皇子は、高市皇子(たけちのみこ)にお命じになり、近江の群臣たちの罪状を宣告させた。
右大臣、左大臣ら重罪の八人を、斬刑(ざんけい)と流刑という極刑に処したが、それ以外はすべて罪をお許しになった。
意外にも寛大な裁きであった。
一方、自らの軍の功績のあった人々を顕彰し、褒賞をお下しになった。
九月に入ると、大海人皇子は、伊勢の桑名、鈴鹿、伊賀の阿閉(あへ)、名張をへて、ついに倭京(やまとのみやこ)に帰りつかれ、飛鳥の島宮(しまのみや)へとお入りになった。
さらに島宮から岡本宮(おかもとのみや)にお移りになり、この年のうちに、岡本宮の南に宮殿をお造りになり、移り住まわれた。
これが、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)である。
翌年の二月二十七日。大海人皇子はこの宮で、帝の位につかれ、天武天皇の御代が始まるのである。このとき、壬申の乱の間ずっと側につかれていた鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が、皇后となられた。皇后は後に持統天皇となる方であった。
こうして壬申の乱は幕を閉じる。
兄、天智天皇の死後、先手を打って近江の都を離れ、吉野で力を蓄え、東国を支配下においた大海人皇子の行動が勝利を引き寄せた。多くの悲しみを乗り越え、この後天武天皇は新しい国造りに邁進していく。
(完結)
※人名地名の読み方は『新編 日本古典文学全集』(小学館)を参考にしています。
島宮跡(島庄遺跡)
もともとは蘇我馬子の邸宅があったとされる。
大海人皇子が出家し、吉野へと向かった際にも立ち寄ったと『日本書紀』にある。
天武天皇即位後は、草壁皇子の離宮などが置かれたとされる。
住所/ 高市郡明日香村島庄
交通/ 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス「石舞台」下車 徒歩約3分
飛鳥池工房遺跡
ため池の飛鳥池の下から発見されたことから名付けられた飛鳥時代の大規模な工房跡。天武天皇、持統天皇の時代から8世紀ごろにかけて使用されていた。
金銀銅を使った製品、ガラス製品のほか、日本最古の銅銭である富本銭の鋳造も行われていた。数千点に及ぶ木簡も出土している。現在は奈良県立万葉文化館の敷地内で、同館では復元遺構や出土品(複製等)を見ることができる。
住所/ 高市郡明日香村飛鳥10 万葉文化館敷地内
交通/ 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス「万葉文化館西
口」下車