第4話 走(に)げて入らむ所なく~大友皇子の最期~
壬申または天武元年七月二十二日。
大海人皇子軍の村国連男依(むらくにのむらじ おより)らが瀬田(現在の滋賀県)に到着した。
このとき、近江朝の大友皇子と群臣たちは、瀬田の橋の西に大軍を構えていた。その軍勢の旗や幟は野を覆い、土煙は天まで立ちのぼり、鉦や鼓の音は数十里の先まで鳴り響くほどであったという。
次々と放たれる矢は雨のように降り注いだが、近江朝の将軍である智尊(ちそん)は、精鋭の部下を率い、防ぎ守った。近江朝の軍勢は、橋の真ん中を三丈ほど切って、一枚の長板を置き、もし板を踏んで攻め込んでくる者があれば、すぐにその板を引いて落とそうと企てた。だが、そのために、自分たちも橋の真ん中から向こうへは攻め入ることができないでいた。
そんなとき、大海人軍の大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)が、勇敢にも、長矛(ほこ)を捨て、甲(よろい)を重ねて身につけ、刀を抜いて、すばやく板を踏んで渡り、板につけられた綱(つな)を断ち切り、射られながらも敵陣に入った。
近江軍は予想外のことに慌てふためき、ちりぢりに逃走した。
「退(さ)がるな、待て。退がるな」。
将軍智尊が、逃げるものを斬り殺し、軍勢の後退を止めようとしたが、むだであった。ほどなく、智尊自身が橋の畔(ほとり)で斬り殺されてしまった。
大友皇子と左大臣 蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣 中臣金(なかとみのかね)たちは、かろうじて逃げおおせたが、翌日二十三日、男依らは、さらに、近江軍の将軍 犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)をも切り殺した。
こうして、大友皇子は逃げ込むところを失い、山前(やまさき)に隠れ、ついに自ら首をくくった。
このとき、左大臣と右大臣、残っていた群臣はみなちりぢりに逃げてしまい、大友皇子の最期には、ただ物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と一人、二人の舎人(とねり)が従っただけであった。
(第5話へつづく)
※人名地名の読み方は『新編 日本古典文学全集』(小学館)を参考にしています。
瀬田の唐橋
琵琶湖から流れ出る瀬田川にかかる橋で、「瀬田橋」「瀬田の長橋」とも呼ばれる。いつ頃この橋がかかったかは定かではないが、古代より、交通の要衝であることから、壬申の乱でも決戦の舞台となった。以後、何度も戦乱の地となり、「唐橋を制するものは天下を制する」ともいわれるようになった。当初はもう少し上流にあり、織田信長の命によって現在の位置に、また大橋、小橋が連なる形に架け替えられた。江戸時代には「瀬田の夕照」が近江八景のひとつとなり、歌川広重の浮世絵や松尾芭蕉の句にも登場する名橋である。
住所/ 滋賀県大津市瀬田1丁目
交通/ 京阪電鉄石山坂本線 「唐橋前駅」 徒歩5分、JR琵琶湖線 「石山駅」 下車 徒歩10分
御霊神社
瀬田の唐橋のすぐ近くにある。壬申の乱で敗走した大友皇子が自ら命を絶った場所に、後に皇子の子である大友与多王が慰霊のために創建したといわれる。祭神の弘文天皇とは大友皇子のことで、生前に即位していたともいわれるが、弘文天皇という諡名が決められたのは明治時代に入ってからのこと。明治十年には弘文天皇陵の候補地となった。なお、大津市内にはほかにも弘文天皇を祀る御霊神社が二社ある。
住所/ 滋賀県大津市鳥居川町14-13
交通/ 京阪電鉄石山坂本線「唐橋前駅」 徒歩3分