第3話 「天神地祇(あまつかみ くにつかみ)、朕(われ)を扶(たす)けたまはば」~次第に増える大海人皇子の一団~
壬申または天武元年6月24日。
大海人皇子は吉野を出発し、東国へとお入りになった。
急なことであったので、乗り物はなく、最初は歩いて進まれたが、途中で馬に出会い、お乗りになった。津振川(つふりがわ)でようやく、皇子の乗り物が届いたのだった。
このときに従っていた者たちは、草壁皇子、忍壁皇子(おさかべのみこ)や舎人など一族20人余りと女官10人余りに過ぎなかった。
菟田(うだ)の吾城(あき)、甘羅村(かんらのむら)で従者を増やし、荷役の馬であるが50頭を得た。しかし、隠郡(なばりのこおり)では大海人皇子軍に従うものはなかった。
しばらく進んで、横河で大きな黒雲が現れたとき、大海人皇子は自ら占いをなさった。
「これは天下が二分する前兆である。その結果、私が天下を得ることになるだろう」。そう、勝利を予言されるのであった。
伊賀では数百もの味方を得ることができ、積殖山口(つむえのやまぐち)では、高市皇子(たけちのみこ)の一行と合流した。
26日の朝、皇子は朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のあたりで、伊勢の方へ向き、天照大神(あまてらすおおみかみ)を拝まれた。
このとき、多くの仲間を従えた大津皇子(おおつのみこ)と合流した。また、美濃の軍勢三千人を味方につけ、要所である不破道(ふわのみち)を塞ぐことにも成功した。東海道、東山道にも人を遣わし、兵を起こすことに成功した。
その後、大海人皇子の軍勢は、美濃国不破(現在の関ヶ原)に布陣した。
このころ、大友皇子率いる近江朝廷では、大海人皇子が東国にお入りになったことを知り、群臣は驚き、大きく動揺した。
あるものは東国へと逃れようとし、ある者は山や沢に隠れようとした。
「いったいどのようにすればよいのだろうか」。
大友皇子が臣下に相談すると、ひとりが進みでてこう申し上げた。
「早く対処しないと手遅れになります。早急に勇敢な騎兵を集め、追い討つのがよいと存じます」。
大友皇子はこれには従われず、家臣をそれぞれ東国、倭京(やまとのみやこ)、筑紫(つくし)、吉備国へと遣わし、すべてに兵を起こさせた。
さて、大海人皇子は、このころ高市皇子にこう語られたという。
「近江朝では、左大臣、右大臣をはじめ、知恵も経験もある群臣が協議をし、事を決定している。しかし、いまの私には、ともに相談するものがおらず、ただ、幼い子どもがいるだけだ。いったいどうすればよいのか」。
この言葉を聞いた高市皇子は、腕まくりをし、剣をにぎりしめ、こう決意を述べた。
「近江の群臣がいかに多勢であろうとも、父上の霊力に逆らえるわけがありません。私が天神地祗(あまつかみ くにつかみ)のお力を得て、父上のご命令を受け、将軍たちを率いて敵を討ちましょう。けっして、わが軍勢を防ぎ止めることなどできないことでしょう」。
大海人皇子は高市皇子をほめ、その手を取り、背をなでながら、こうおっしゃった。
「慎重にふるまえよ、決して油断してはならないぞ」。
そうして、鞍をつけた馬を与えられ、軍事の権限をすべてゆだねられた高市皇子は不破の最前線に戻り、大海人皇子は少し東に位置する野上に行宮(かりみや)をつくって、滞在された。
この夜、雷が鳴り、激しい雨が降った。
大海人皇子はおっしゃった。
「天神地祗が、われをお助けくださるならば、この雷雨は止むであろう」。
その言葉を言い終わるやいなや、雷雨は、止んだ。
ときは7月に入り、戦いは、さらに大和、近江、伊賀などの要所で続くのだった。
(第4話へつづく)
※人名地名の読み方は『新編 日本古典文学全集』(小学館)を参考にしています。
津風呂湖
「日本書紀」に出てくる「津振川」は津風呂川かと考えられている。吉野宮滝の下流で、吉野川と合流する。写真は津風呂川に建設された津風呂ダムによってできた津風呂湖。周辺は吉野川津風呂県立自然公園に指定されている。
住所/ 吉野郡吉野町
交通/ 近鉄大和上市駅から奈良交通バス「湯盛温泉杉の湯」行きで15分、バス停「津風呂湖口」下車 徒歩約30分
阿紀神社
大海人皇子が通った「菟田の吾城」は「万葉集」にも登場する「阿騎野」のことで、現在、宇陀市大宇陀大字迫間にある阿紀神社あたりとされる。天照大神を祀り、毎年6月に螢能が奉納される。
住所/ 宇陀市大宇陀迫間252
交通/ 近鉄榛原駅から大宇陀行きバス「大宇陀高校前」下車 徒歩約5分