高千穂宮を出て、東へ東へと進まれた神倭伊波礼毘古命(『古事記』での表記。『日本書紀』では神日本磐余彦天皇)は筑紫、安芸、吉備、浪速を経て、まずは竜田を越えようとしたが、断念。その次に進んだのが現在の生駒山であった。そこでは長髄彦(ながすねびこ)との戦いとなり、流れ矢を受け、五瀬命(いつせのみこと)が負傷してしまう。生駒山を越える暗越は険しく、神武東征を阻んだ山となったが、古代から河内と奈良を結ぶ最短のルートとして多くの人に利用されてきた。江戸時代には俳聖・松尾芭蕉もこの山を越え、大坂へと向かい、最期を迎えた。
『万葉集』には生駒山を詠んだ歌が7首収められている。そのうちの一首は、遣新羅使のひとりが詠んだ、「どうしても逢いたくて険しい生駒山を越える」というもの。生駒山は、越えればそこは大和の国、というイメージで捉えられていたことがうかがえる。その感覚はトンネルが開通した現在もそれほど変わってはいないのかもしれない。