『日本書紀』には、聖徳太子が斑鳩宮を造営し、住み始めたことと、この宮で亡くなったことが記されている。太子は、斑鳩宮から、当時の都があった飛鳥の小墾田宮まで愛馬の黒駒で通っていたといわれ、いまもそのルートは「太子道」として残っている。
当時の斑鳩は、飛鳥からは離れているものの、龍田越の道で海の玄関口であった難波と結ばれた地であり、物資輸送の道であった大和川にも面していた。蘇我氏の支配下にあった飛鳥の地からあえて離れた斑鳩の地を、聖徳太子は新しい拠点にしようとしたと考えられている。
現在では、聖徳太子が建立したとされる法隆寺、聖徳太子が母・穴穂部間人皇后のために建てた中宮寺、太子の子・山背大兄皇子が太子の遺言によって、岡本宮を寺に変えた法起寺などがあり、奈良県内でも屈指の観光地で、平成5年には、『法隆寺地域の仏教建造物』が日本で初めて世界文化遺産に登録された。