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聖徳太子コラム冒頭

推古天皇・蘇我馬子と共に、歴史に名を残す数々の政策を実行した聖徳太子。 数々の伝説的なエピソードと合わせて、歴史上のスーパースターのように語られる太子ですが、実はとても謎の多い人物としても知られています。
そんな太子にまつわる謎のひとつとしてよく挙げられるのが、「斑鳩への移住」です。 政治家としての絶頂を極めんとする渦中、太子は、なぜか当時の都であった飛鳥から「斑鳩」という土地に移り住んでいます。
なぜ太子は飛鳥から斑鳩へと移り住んだのか?そこにはどんな理由があったと推測できるのか?
奈良県の各所にある太子が残した痕跡を辿りながら、その謎に迫ってみたいと思います。

プロフィール

※以下史実をもとにした筆者独自の考察、見解が含まれます。

 推古・太子・馬子による三頭体制

まずは、太子がどのようにして政治を動かす中心人物となったのか振り返ってみましょう。

「今若し我をして敵に勝たしめたまはば 必ず護世四王(ごせしおう)に奉為(おおんため)に塔を起立(た)てむ」

仏教の礼拝を巡って蘇我氏と物部氏が対立した丁未(ていび)の乱において、物部守屋(もののべのもりや)の精鋭軍に終始押されぎみであった蘇我馬子(そがのうまこ)軍に加わっていた、わずか14歳の厩戸皇子(うまやとのみこ)こと聖徳太子が、勝利を四天王に祈願して言い放ったのがこのひと言です。

2大豪族・物部氏と蘇我氏、その権力争いの当事者として太子が参戦したのは、自身が蘇我氏の血を濃厚に受け継いでいたからでした。父・用明天皇(ようめいてんのう)も母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も、ともに蘇我稲目(いなめ)の娘が母だったからです(用明天皇の母が姉の堅塩姫(きたしひめ)、穴穂部間人皇女の母が妹・小姉君(おあねのきみ)。

その太子の祈願がどれほどの効果をもたらしたのか定かではありませんが、守屋が殺されたことで物部氏本宗家が滅亡し、蘇我氏全盛時代の幕が開いたことは間違いありません。

四天王寺

▲物部氏との戦いに勝った太子が、約束通り建立した四天王寺

 

 

 

それから5年、19歳になった太子が、推古天皇(すいこてんのう)の摂政として政治の表舞台に登場。推古・太子・馬子の三頭体制が、いよいよスタートしたのです。

ちなみに、『日本書紀』には、馬子は、欽明天皇と小姉君の子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)ばかりかその弟の崇峻天皇(すしゅんてんのう)をも殺害した極悪非道の人物として描かれていますが、実は堅実な実務家であったとみなす向きが少なくありません。年長ゆえに政(まつりごと)には長けていたでしょうが、女帝としての威を時折かいま見せる推古天皇とともに、希望に満ちた若き太子が、自由闊達に持てる才能を遺憾なく発揮できるよう見守った…というのが実情だったのでは?と考えます。

その後、太子が中心となって、四天王寺建立はもとより、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布、さらには『国記』や『天皇記』の編纂などの画期的な諸政策を次々と打ち出していったのです。

 

 聖徳太子は、なぜ飛鳥から斑鳩へと宮を移したのか?

 

そんな中、太子は推古天皇9(601)年、突如、飛鳥から遠く離れた斑鳩(いかるが)の地に、自らの新たな宮を建て始めました。建設には4年8ヶ月かかったといいますから、壮大な規模だったに違いありません。宮が築かれたのは、現在の法隆寺夢殿のあたりとか。

それまで太子の政の舞台であった小墾田宮(おはりだのみや)は、現在の雷丘東方(いかづちのおかとうほう)遺跡(豊浦や大福など諸説あり)あたりとみられていますから、通勤距離は最短でも16km以上。その両地を結ぶのが、太子道(たいしみち/筋違道、法隆寺街道とも)で、太子は甲斐国から献上された名馬・黒駒にまたがって通い続けたのです。

 

 

古宮遺跡

▲推古天皇が都とした小墾田宮の推定地の1つとされる豊浦の古宮遺跡

 

手綱を引いていたのは、百済からの渡来人(一説によれば百済聖明王の縁者)調子丸(調子麿)。小走りに走ったとしても、片道2時間近くかかったことでしょう。毎日通ったのかどうか定かではありませんが、往復4時間の道のりは、決して容易なものではなかったはずです。

 

明日香村

▲のどかな田園風景が広がる現在の明日香村

 

ではなぜ太子は飛鳥の地(現在の明日香村のあたり)を離れ、遠く斑鳩へと移り住んだのでしょうか。その謎解きのヒントは、太子が通った太子道を辿るうちに見えてくるかもしれません。まずはこの古道を辿る中で探してみることにしましょう。

 

 奈良県各地に眠る痕跡を辿る。“太子道”から見える聖徳太子の狙いとは?

 

太子道

▲葦垣宮があったとされる成福寺跡に立つ太子道の碑

 

最初に訪れたいのが、明日香村役場から飛鳥川のせせらぎを渡ってすぐのところにある橘寺(たちばなでら)です。ここは垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に、田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたというところから名付けられたとか。同地は太子の生誕地としても知られ、そのすぐ北、川原寺(かわはらでら)跡前には「聖徳皇太子御誕生所」と記された石碑がある。ただし生誕地候補はここだけでなく、桜井市にある上之宮も候補地とのこと。

橘寺の北1kmほどのところにある飛鳥寺は、日本で最初に築かれたといわれる寺院です。守屋討伐戦に勝利した馬子が建立した法興寺(ほうこうじ/現在は安居院)がその前身で、像高275.2cmもの巨大な釈迦如来像(飛鳥大仏)が鎮座しています。

 

太子道

▲日本最古といわれる仏像がある飛鳥寺。蘇我馬子が建立した

 

さらにその北に位置する雷丘東方遺跡が、推古天皇が即位した小墾田宮跡。太子たちが冠位十二階を制定し、十七条憲法を発布したのも、この宮殿においてでした。ただし、この比定地に関しても、前述のように明日香村豊浦や桜井市大福など、候補地がいくつかあって確定されていないのが現状です。

ともあれ、この辺りから、南北線から20度ほど傾いた細い道が北西へと連なるのが太子道。ぐねぐねと蛇行する飛鳥川や曽我川に寄り添うかのような道のりであることも特徴的です。今ではその痕跡を探すのは少々困難ですが、それでも、この古道に沿って太子ゆかりの伝承地がいくつか残っているので、今も辛うじてたどることができるのです。

道の途中にある白山神社もそのひとつで、ここには太子を乗せた名馬・黒駒を繋いだという「駒つなぎの柳」があります。さらに北上して大河・大和川やその支流・岡崎川を渡れば、太子が休息したという「腰掛石」が置かれた飽波神社も。

 

上宮遺跡公園の太子像

▲腰掛石に座る太子のかかしと、上宮遺跡公園の太子像

 

そこから北西へ進めば、晩年の太子が妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)とともに晩年を過ごしたとされる葦垣宮(あしがきのみや/現上宮遺跡公園)に到着。その北にあるのが、かつて舎人・調子丸の墓とみられた調子丸古墳(後に時代が合わないことが判明)で、それを過ぎたところで、ようやく太子の宮のあった現法隆寺夢殿に辿り着くのです。

 

調子丸の墓と伝わる古墳

▲調子丸の墓と伝わる古墳。調査では5世紀頃に造られたものと判明している

 

 

法隆寺の夢殿

▲法隆寺の夢殿。中には太子の等身像といわれる救世観音像がある

 キーワードは外交戦略。斑鳩への移住は、夢の実現への近道だった?

 

では、「太子はなぜ飛鳥から斑鳩に移ったのか?」という謎解きのヒントはどこにあったのでしょうか?すでに、答えが明記されていることにお気付きでしょうか? それは飛鳥および斑鳩の地形に関係しています。飛鳥周辺を見回してれば、飛鳥川や曽我川などいずれもせせらぎとしか呼べないような小川ばかり。とても大船を浮かべて大量の物資を輸送させることのできる大河がないことがわかります。

一方、斑鳩に目を向ければ、そこには雄大な大和川が流れ込んでいることに気付くでしょう。この大河を下れば、容易に遠洋航路の拠点ともいうべき難波津に出ることができるのです。難波津が太子にとって重要な拠点だったというのは、いうまでもなく、太子が外交戦略を重要視していたことの現れでした。

 

 

新御幸橋

▲現在の大和川とそこに架かる新御幸橋

 

 

内政改革に一定の成果を収めた太子が気がかりだったのが外交でした。継体天皇(けいたいてんのう)や欽明天皇など、それまでの各天皇が任那(みまな/朝鮮半島南部にある倭国の支配域)を重視するあまり、その隣国の新羅を敵視し続けていたことが気がかりだったのです。一方的に新羅を敵視するよりも、「新羅とも程良い協調路線を取りながら朝鮮半島の平和に与し、かつ大国・隋とも対等に渡り合えるように」との壮大な外交戦略を夢見ていたと思われるのです。


太子が飛鳥から斑鳩へと移り住んだのも、巷でよくささやかれているような、馬子からの逃避などではありませんでした。それよりも、太子が思い描いた外交戦略実現のため、地の利の良い斑鳩の地を発展させることに大きな期待を寄せたからだと筆者は考えています。

その契機となったのが、推古天皇8(600)年に隋に派遣した最初の遣隋使でした。この時、隋の初代皇帝・文帝に語った遣隋使・多利思比弧(たりしひこ)の弁「天をもって兄とし、日をもって弟と為す。天未だ明けざる頃に〜」が、文帝にとって「理に合わぬ」として蔑まされたことがありました。これは本来、「夜明け前に推古天皇が祭祀を執り行い、日が出てから厩戸皇子が政を司る」との旨を説明しようとしたものだったと推測できそうですが、文帝に理解されることはありませんでした。

この文帝に蔑まされたことがよほど応えたのでしょうか、愕然とした太子は政策を変更し、外交に重きを置くようになったのです。翌年には早くも、交通の便の良い斑鳩に宮の建設を開始。そこを拠点として、壮大な外交戦略を練っていったのです。それからの10年間の太子の活躍ぶりには、目を見張るものがありました。

 

夢破れた理想社会の実現。太子を追いつめた“過去の呪い”

ところが、太子が斑鳩の地に移り住み始めて10年ほど過ぎた推古天皇22(615)年頃になると、なぜか太子は仏教にのめり込んでいくようになっていきました。『法華経』などの注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著したのもこの頃のこと。逆に、『国記』や『天皇記』の編纂以外、政に関する動向は、歴史書にほとんど記されることがなくなりました。想いを馳せれば、仏教を御柱に掲げた理想社会を夢見ていたものの、結局、思い通りの社会にはならなかったのでしょうか。

この理想社会の実現を夢見る太子に対して、現実主義者の馬子が危惧を抱くようになるのも時間の問題でした。太子と馬子との関係も、この頃から亀裂が走るようになっていったと思えるのです。

振り返ってみれば、自身が仏教徒でありながら、守屋討伐軍に身を投じ、結果として殺害に手を貸したことも気がかりでした。また、馬子が崇峻天皇を殺害した際にも、本来であれば、炊屋姫(かしきやひめ/推古天皇)共々、その非を声高に叫んで罪を問うべき立場にありながら、ともに見て見ぬ振りをして馬子処罰に動くことはありませんでした。それが意味することとは、つまり馬子一人の犯行ではなかった…ということでしょう。自身をも含め、取り巻く人々の血塗られた手、これらのことを思い起こせば、敬虔な仏教徒である太子が政を避け、かつ飽むようになっていったことも無理からぬことだったのです。

晩年の太子と馬子がどのような関係にあったのか定かではありませんが、おそらく、堅実派の馬子から危惧され、挙句、不仲になったのかも。推古天皇30(622)年2月22日(『日本書紀』では推古天皇29「621」年2月5日)、前日に薨去した妃・膳大姫を追うかのように崩御した太子ですが、その最期は今でも謎に包まれています。

ちなみに、太子亡き後を継いだ息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も、斑鳩宮において父の思い描いていた理想社会の実現を夢見ていたようです。妃妾らとともに暮らすその共同生活は、通い婚が当たり前であった当時の人々の目には異常と映ったことでしょう。それをも含めて危険視した蘇我入鹿によって襲撃され、挙句に上宮王家一族はことごとく滅ぼされてしまいました。親子共々、理想社会の到来を夢見たものの、その実現をあまりにも早急に求め過ぎたからなのでしょうか。
志半ばで亡くなった太子ですが、日本の法治国家の礎を築いたことは間違いありません。その偉業を鑑みると、太子の先見の明には心底、驚かされてしまうのです。もし、太子が掲げた仏教を御柱とする理想社会が実現していたとしたら、その後の歴史はどのようになっていたのでしょうか?

 

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聖徳太子コラム冒頭

推古天皇・蘇我馬子と共に、歴史に名を残す数々の政策を実行した聖徳太子。 数々の伝説的なエピソードと合わせて、歴史上のスーパースターのように語られる太子ですが、実はとても謎の多い人物としても知られています。
そんな太子にまつわる謎のひとつとしてよく挙げられるのが、「斑鳩への移住」です。 政治家としての絶頂を極めんとする渦中、太子は、なぜか当時の都であった飛鳥から「斑鳩」という土地に移り住んでいます。
なぜ太子は飛鳥から斑鳩へと移り住んだのか?そこにはどんな理由があったと推測できるのか?
奈良県の各所にある太子が残した痕跡を辿りながら、その謎に迫ってみたいと思います。

プロフィール

※以下史実をもとにした筆者独自の考察、
見解が含まれます。

 推古・太子・馬子による三頭体制


まずは、太子がどのようにして政治を動かす中心人物となったのか振り返ってみましょう。

「今若し我をして敵に勝たしめたまはば 必ず護世四王(ごせしおう)に奉為(おおんため)に塔を起立(た)てむ」

仏教の礼拝を巡って蘇我氏と物部氏が対立した丁未(ていび)の乱において、物部守屋(もののべのもりや)の精鋭軍に終始押されぎみであった蘇我馬子(そがのうまこ)軍に加わっていた、わずか14歳の厩戸皇子(うまやとのみこ)こと聖徳太子が、勝利を四天王に祈願して言い放ったのがこのひと言です。

2大豪族・物部氏と蘇我氏、その権力争いの当事者として太子が参戦したのは、自身が蘇我氏の血を濃厚に受け継いでいたからでした。父・用明天皇(ようめいてんのう)も母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も、ともに蘇我稲目(いなめ)の娘が母だったからです(用明天皇の母が姉の堅塩姫(きたしひめ)、穴穂部間人皇女の母が妹・小姉君(おあねのきみ)。

その太子の祈願がどれほどの効果をもたらしたのか定かではありませんが、守屋が殺されたことで物部氏本宗家が滅亡し、蘇我氏全盛時代の幕が開いたことは間違いありません。

四天王寺

▲物部氏との戦いに勝った太子が、約束通り建立した四天王寺

それから5年、19歳になった太子が、推古天皇(すいこてんのう)の摂政として政治の表舞台に登場。推古・太子・馬子の三頭体制が、いよいよスタートしたのです。


ちなみに、『日本書紀』には、馬子は、欽明天皇と小姉君の子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)ばかりかその弟の崇峻天皇(すしゅんてんのう)をも殺害した極悪非道の人物として描かれていますが、実は堅実な実務家であったとみなす向きが少なくありません。年長ゆえに政(まつりごと)には長けていたでしょうが、女帝としての威を時折かいま見せる推古天皇とともに、希望に満ちた若き太子が、自由闊達に持てる才能を遺憾なく発揮できるよう見守った…というのが実情だったのでは?と考えます。

その後、太子が中心となって、四天王寺建立はもとより、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布、さらには『国記』や『天皇記』の編纂などの画期的な諸政策を次々と打ち出していったのです。

 

 聖徳太子は、なぜ飛鳥から斑鳩へと宮を移したのか?

 

そんな中、太子は推古天皇9(601)年、突如、飛鳥から遠く離れた斑鳩(いかるが)の地に、自らの新たな宮を建て始めました。建設には4年8ヶ月かかったといいますから、壮大な規模だったに違いありません。宮が築かれたのは、現在の法隆寺夢殿のあたりとか。

それまで太子の政の舞台であった小墾田宮(おはりだのみや)は、現在の雷丘東方(いかづちのおかとうほう)遺跡(豊浦や大福など諸説あり)あたりとみられていますから、通勤距離は最短でも16km以上。その両地を結ぶのが、太子道(たいしみち/筋違道、法隆寺街道とも)で、太子は甲斐国から献上された名馬・黒駒にまたがって通い続けたのです。

 

 

古宮遺跡

▲推古天皇が都とした小墾田宮の推定地の1つとされる豊浦の古宮遺跡

 

手綱を引いていたのは、百済からの渡来人(一説によれば百済聖明王の縁者)調子丸(調子麿)。小走りに走ったとしても、片道2時間近くかかったことでしょう。毎日通ったのかどうか定かではありませんが、往復4時間の道のりは、決して容易なものではなかったはずです。

 

明日香村

▲のどかな田園風景が広がる現在の明日香村

 

ではなぜ太子は飛鳥の地(現在の明日香村のあたり)を離れ、遠く斑鳩へと移り住んだのでしょうか。その謎解きのヒントは、太子が通った太子道を辿るうちに見えてくるかもしれません。まずはこの古道を辿る中で探してみることにしましょう。

 

 奈良県各地に眠る痕跡を辿る。“太子道”から見える聖徳太子の狙いとは?

 

太子道

▲葦垣宮があったとされる成福寺跡に立つ太子道の碑

 

最初に訪れたいのが、明日香村役場から飛鳥川のせせらぎを渡ってすぐのところにある橘寺(たちばなでら)です。ここは垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に、田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたというところから名付けられたとか。同地は太子の生誕地としても知られ、そのすぐ北、川原寺(かわはらでら)跡前には「聖徳皇太子御誕生所」と記された石碑がある。ただし生誕地候補はここだけでなく、桜井市にある上之宮も候補地とのこと。

橘寺の北1kmほどのところにある飛鳥寺は、日本で最初に築かれたといわれる寺院です。守屋討伐戦に勝利した馬子が建立した法興寺(ほうこうじ/現在は安居院)がその前身で、像高275.2cmもの巨大な釈迦如来像(飛鳥大仏)が鎮座しています。

 

太子道

▲日本最古といわれる仏像がある飛鳥寺。蘇我馬子が建立した

 

さらにその北に位置する雷丘東方遺跡が、推古天皇が即位した小墾田宮跡。太子たちが冠位十二階を制定し、十七条憲法を発布したのも、この宮殿においてでした。ただし、この比定地に関しても、前述のように明日香村豊浦や桜井市大福など、候補地がいくつかあって確定されていないのが現状です。

ともあれ、この辺りから、南北線から20度ほど傾いた細い道が北西へと連なるのが太子道。ぐねぐねと蛇行する飛鳥川や曽我川に寄り添うかのような道のりであることも特徴的です。今ではその痕跡を探すのは少々困難ですが、それでも、この古道に沿って太子ゆかりの伝承地がいくつか残っているので、今も辛うじてたどることができるのです。

道の途中にある白山神社もそのひとつで、ここには太子を乗せた名馬・黒駒を繋いだという「駒つなぎの柳」があります。さらに北上して大河・大和川やその支流・岡崎川を渡れば、太子が休息したという「腰掛石」が置かれた飽波神社も。

 

上宮遺跡公園の太子像

▲腰掛石に座る太子のかかしと、上宮遺跡公園の太子像

 

そこから北西へ進めば、晩年の太子が妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)とともに晩年を過ごしたとされる葦垣宮(あしがきのみや/現上宮遺跡公園)に到着。その北にあるのが、かつて舎人・調子丸の墓とみられた調子丸古墳(後に時代が合わないことが判明)で、それを過ぎたところで、ようやく太子の宮のあった現法隆寺夢殿に辿り着くのです。

 

調子丸の墓と伝わる古墳

▲調子丸の墓と伝わる古墳。調査では5世紀頃に造られたものと判明している

 

法隆寺の夢殿

▲法隆寺の夢殿。中には太子の等身像といわれる救世観音像がある

 

 キーワードは外交戦略。斑鳩への移住は、夢の実現への近道だった?

 

では、「太子はなぜ飛鳥から斑鳩に移ったのか?」という謎解きのヒントはどこにあったのでしょうか?すでに、答えが明記されていることにお気付きでしょうか? それは飛鳥および斑鳩の地形に関係しています。飛鳥周辺を見回してれば、飛鳥川や曽我川などいずれもせせらぎとしか呼べないような小川ばかり。とても大船を浮かべて大量の物資を輸送させることのできる大河がないことがわかります。

一方、斑鳩に目を向ければ、そこには雄大な大和川が流れ込んでいることに気付くでしょう。この大河を下れば、容易に遠洋航路の拠点ともいうべき難波津に出ることができるのです。難波津が太子にとって重要な拠点だったというのは、いうまでもなく、太子が外交戦略を重要視していたことの現れでした。

 

 

新御幸橋

▲現在の大和川とそこに架かる新御幸橋

 

内政改革に一定の成果を収めた太子が気がかりだったのが外交でした。継体天皇(けいたいてんのう)や欽明天皇など、それまでの各天皇が任那(みまな/朝鮮半島南部にある倭国の支配域)を重視するあまり、その隣国の新羅を敵視し続けていたことが気がかりだったのです。一方的に新羅を敵視するよりも、「新羅とも程良い協調路線を取りながら朝鮮半島の平和に与し、かつ大国・隋とも対等に渡り合えるように」との壮大な外交戦略を夢見ていたと思われるのです。


太子が飛鳥から斑鳩へと移り住んだのも、巷でよくささやかれているような、馬子からの逃避などではありませんでした。それよりも、太子が思い描いた外交戦略実現のため、地の利の良い斑鳩の地を発展させることに大きな期待を寄せたからだと筆者は考えています。

その契機となったのが、推古天皇8(600)年に隋に派遣した最初の遣隋使でした。この時、隋の初代皇帝・文帝に語った遣隋使・多利思比弧(たりしひこ)の弁「天をもって兄とし、日をもって弟と為す。天未だ明けざる頃に〜」が、文帝にとって「理に合わぬ」として蔑まされたことがありました。これは本来、「夜明け前に推古天皇が祭祀を執り行い、日が出てから厩戸皇子が政を司る」との旨を説明しようとしたものだったと推測できそうですが、文帝に理解されることはありませんでした。

この文帝に蔑まされたことがよほど応えたのでしょうか、愕然とした太子は政策を変更し、外交に重きを置くようになったのです。翌年には早くも、交通の便の良い斑鳩に宮の建設を開始。そこを拠点として、壮大な外交戦略を練っていったのです。それからの10年間の太子の活躍ぶりには、目を見張るものがありました。

 

夢破れた理想社会の実現。太子を追いつめた“過去の呪い”


ところが、太子が斑鳩の地に移り住み始めて10年ほど過ぎた推古天皇22(615)年頃になると、なぜか太子は仏教にのめり込んでいくようになっていきました。『法華経』などの注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著したのもこの頃のこと。逆に、『国記』や『天皇記』の編纂以外、政に関する動向は、歴史書にほとんど記されることがなくなりました。想いを馳せれば、仏教を御柱に掲げた理想社会を夢見ていたものの、結局、思い通りの社会にはならなかったのでしょうか。


この理想社会の実現を夢見る太子に対して、現実主義者の馬子が危惧を抱くようになるのも時間の問題でした。太子と馬子との関係も、この頃から亀裂が走るようになっていったと思えるのです。

振り返ってみれば、自身が仏教徒でありながら、守屋討伐軍に身を投じ、結果として殺害に手を貸したことも気がかりでした。また、馬子が崇峻天皇を殺害した際にも、本来であれば、炊屋姫(かしきやひめ/推古天皇)共々、その非を声高に叫んで罪を問うべき立場にありながら、ともに見て見ぬ振りをして馬子処罰に動くことはありませんでした。それが意味することとは、つまり馬子一人の犯行ではなかった…ということでしょう。自身をも含め、取り巻く人々の血塗られた手、これらのことを思い起こせば、敬虔な仏教徒である太子が政を避け、かつ飽むようになっていったことも無理からぬことだったのです。

晩年の太子と馬子がどのような関係にあったのか定かではありませんが、おそらく、堅実派の馬子から危惧され、挙句、不仲になったのかも。推古天皇30(622)年2月22日(『日本書紀』では推古天皇29「621」年2月5日)、前日に薨去した妃・膳大姫を追うかのように崩御した太子ですが、その最期は今でも謎に包まれています。

ちなみに、太子亡き後を継いだ息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も、斑鳩宮において父の思い描いていた理想社会の実現を夢見ていたようです。妃妾らとともに暮らすその共同生活は、通い婚が当たり前であった当時の人々の目には異常と映ったことでしょう。それをも含めて危険視した蘇我入鹿によって襲撃され、挙句に上宮王家一族はことごとく滅ぼされてしまいました。親子共々、理想社会の到来を夢見たものの、その実現をあまりにも早急に求め過ぎたからなのでしょうか。
志半ばで亡くなった太子ですが、日本の法治国家の礎を築いたことは間違いありません。その偉業を鑑みると、太子の先見の明には心底、驚かされてしまうのです。もし、太子が掲げた仏教を御柱とする理想社会が実現していたとしたら、その後の歴史はどのようになっていたのでしょうか?

 

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