ところが、太子が斑鳩の地に移り住み始めて10年ほど過ぎた推古天皇22(615)年頃になると、なぜか太子は仏教にのめり込んでいくようになっていきました。『法華経』などの注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著したのもこの頃のこと。逆に、『国記』や『天皇記』の編纂以外、政に関する動向は、歴史書にほとんど記されることがなくなりました。想いを馳せれば、仏教を御柱に掲げた理想社会を夢見ていたものの、結局、思い通りの社会にはならなかったのでしょうか。
この理想社会の実現を夢見る太子に対して、現実主義者の馬子が危惧を抱くようになるのも時間の問題でした。太子と馬子との関係も、この頃から亀裂が走るようになっていったと思えるのです。
振り返ってみれば、自身が仏教徒でありながら、守屋討伐軍に身を投じ、結果として殺害に手を貸したことも気がかりでした。また、馬子が崇峻天皇を殺害した際にも、本来であれば、炊屋姫(かしきやひめ/推古天皇)共々、その非を声高に叫んで罪を問うべき立場にありながら、ともに見て見ぬ振りをして馬子処罰に動くことはありませんでした。それが意味することとは、つまり馬子一人の犯行ではなかった…ということでしょう。自身をも含め、取り巻く人々の血塗られた手、これらのことを思い起こせば、敬虔な仏教徒である太子が政を避け、かつ飽むようになっていったことも無理からぬことだったのです。
晩年の太子と馬子がどのような関係にあったのか定かではありませんが、おそらく、堅実派の馬子から危惧され、挙句、不仲になったのかも。推古天皇30(622)年2月22日(『日本書紀』では推古天皇29「621」年2月5日)、前日に薨去した妃・膳大姫を追うかのように崩御した太子ですが、その最期は今でも謎に包まれています。
ちなみに、太子亡き後を継いだ息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も、斑鳩宮において父の思い描いていた理想社会の実現を夢見ていたようです。妃妾らとともに暮らすその共同生活は、通い婚が当たり前であった当時の人々の目には異常と映ったことでしょう。それをも含めて危険視した蘇我入鹿によって襲撃され、挙句に上宮王家一族はことごとく滅ぼされてしまいました。親子共々、理想社会の到来を夢見たものの、その実現をあまりにも早急に求め過ぎたからなのでしょうか。
志半ばで亡くなった太子ですが、日本の法治国家の礎を築いたことは間違いありません。その偉業を鑑みると、太子の先見の明には心底、驚かされてしまうのです。もし、太子が掲げた仏教を御柱とする理想社会が実現していたとしたら、その後の歴史はどのようになっていたのでしょうか?
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