⑦村屋坐弥冨都比賣神社(むらやにいますみふつひめ)(村屋神社)
大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)方が軍勢を金綱井(かなづなのい)(所在地不明。橿原市今井という説も)に集結させたとき、高市(たけち)郡の長官の高市県主詐梅(たけちのあがたぬしこめ)が、口がふさがって話すことができなくなりました。
3日後に、神がかりながら「自分は、高市社(たけちのやしろ)にいる。名は事代主神(ことしろぬしのかみ)という。また身狭社(むさのやしろ)にいる。名は生霊神(いくみたまのかみ)である」と言い、「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)(神武天皇)の御陵に、馬といろいろな兵器を奉れ」と言いました。
また、「大海人皇子の前後に立って、不破(ふわ)までお送りして帰ってきたのだ。今も大海人皇子の軍を守っているのだ」と言い、「西から近江朝廷軍が攻めてきた。用心するように」と言って、神がかりから醒めました。そのことが的中して、人々は神々を敬いました。また、村屋神(むらやのかみ)(式内社村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみふつひめ)神社・田原本町蔵堂)が神主にのりうつり「自分の社の中の道から軍勢が来る。道を塞げ」と言った数日後、近江朝廷軍が襲ってきました。後に天武天皇は、この三神の位階を上げて祭祀したことが日本書紀に記されています。
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