④不破関跡・桃配山
『日本書紀』天武天皇元年(672)6月条に、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が東国へ向かうときに、伊勢国朝明郡(あさけぐん)(三重県三重郡の一部)の迹太川(とおがわ)の辺りで天照大神(あまてらすおおみかみ)を望拝したとあります。
672年6月22日、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)は美濃へ村国男依(むらくにのおより)ら3人の使者を送り、付近の兵を集め、不破道(ふわのみち)(後の不破関)の閉鎖を命じました。
大海人皇子は吉野から伊勢、桑名を経由し、6月27日に野上(のがみ)に本営を置きました。野上行宮(のがみあんぐう)の本隊は高市皇子(たけちのみこ)を筆頭に野上から約3km離れた「ワザミガハラ」(現在の関ケ原付近と言われる)に集結しました。
不破道を防ぐことによって大友皇子は東国での徴兵ができなくなり、大海人皇子軍の勝利が確定したとも言えます。不破道は現在の不破関あたりであると考えられています。
桃配山(ももくばりやま)は関ケ原合戦の際に徳川家康が布陣した山として有名ですが、その語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものです。しかし「日本書紀」等での記述はなく、その根拠については未だ謎に包まれています。
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