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コラム冒頭



コラム冒頭

▲最大の激戦地となった瀬田の唐橋

 


※以下史実をもとにした筆者独自の考察、見解が含まれます。 


壬申の乱は、天智天皇(てんじてんのう)の皇太子「大友皇子」(おおとものおうじ)と天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ)による皇位継承を発端とした内乱です。約1か月間の内乱に勝利したのは、後に天武天皇(てんむてんのう)となる「大海人」。

乱に勝利した大海人は後に天武天皇となり、日本を律令国家にするためにさまざまな政策を打ち出しました。もし、大友が勝利していたら、日本の国家成立が遅れていた可能性もあり、壬申の乱は古代日本のターニングポイントとなる大事件でした。

乱が勃発した通説となっているのは「大友が大海人に奇襲をしかけ、大海人は止むに止まれず反撃を開始した」というものですが、実際はそうではなかったのではないかとも言われています。その理由は、壬申の乱に関する記録が、大海人側によって作られた「勝者の歴史」だから。

では、実際の壬申の乱とはどのようなものだったのでしょうか?
通説なっている「大友=悪者、大海人=善人」という構図は事実なのか?

大友と大海人の関係性や乱の戦況などを振り返りながら、壬申の乱の真実に迫ってみたいと思います。
 


藤井勝彦

PROFILE
藤井勝彦/ライター
1955年、大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。編集プロダクション・フリーポート企画代表を経て、2012年より著述業に専念。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』『邪馬台国』『神々が宿る絶景100』など日本古代史にまつわる著述が多い。また、『三国志合戦事典』『三国志英雄たちの足跡』『図解三国志』などの三国志本の他、『図解ダーティヒロイン』『中国の世界遺産』『世界遺産富士山を行く』『世界の国ぐにビジュアル事典』などの著書もある。現在、日刊紙『交通新聞』にて、「古代史の旅」(全88回を予定)を連載中。
 

大海人の「やむなく挙兵」は作り話


「何ぞ黙して身を亡さむや」
天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位を甥である大友皇子に譲らんと、自ら清く身を引き、吉野へ隠棲したというのが『日本書紀』が記す情景です。
 


吉野山

▲吉野花矢倉展望台から大海人が隠棲した吉野山を望む

 


吉野へ向かったのは、天智天皇4(665)年10月19日のことでした。それから半年、大海人に仕えていた舎人(とねり)・朴井連村雄君(えのいのむらじおきみ)が、気になる報告をもたらしてきました。大友率いる近江朝が、天智天皇の山陵(墓)を築くとしながらも、その実、人夫に武器を持たせているというのです。さらに、吉野への糧道まで塞いでいるとも。

これを耳にした大海人が、大友の開戦準備が進んでいることを知って、咄嗟に口を衝いて出たのが、冒頭の悲痛な叫び声だったのです。「このまま黙って身を滅ぼしてなるものか!」と、降りかかった火の粉を振り払うかのように、開戦の決意を表明しています。壬申の乱といえば、大海人と大友が皇位継承をめぐって繰り広げられた内乱ですが、その戦闘開始の合図ともいえるのが、このひと言でした。
 


津風呂湖

▲矢治峠から望む津風呂湖。吉野から出陣した大海人は、矢治峠を越えてこのあたりで隊伍を整え、宇陀に向かった

 


ところが、慌てて吉野を脱出したといいながらも、その後の展開は、実に効率の良いものでした。大海人は即座に不破道(ふわのみち/東国と西国をつなぐ重要な道)を塞いだばかりか、東国の兵をも結集。各地で繰り広げられた戦闘のほとんどが連戦連勝。わずか1か月足らずで戦いを制して勝利を掴みとったという、実に手際の良いものだったのです。

予期せず戦いをけしかけられ、止むに止まれず反撃を開始したとはとても思えない周到ぶりに、違和感を覚えざるを得ません。いうまでもなく、大海人の「やむなく挙兵」というのは、『日本書紀』編纂者の創作。そもそも、戦いの計画を練ったのも仕掛けたのも、大海人側の方だったとしか考えようがないのです。
 


滋賀県東近江市の万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ

▲滋賀県東近江市の万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ。  天武と天智が仲良く狩りをしている

 

夫婦仲良く戦いの準備を行う


では、その首謀者は、大海人だったのでしょうか? 結論から先に言うと、その妻・鸕野讚良(うののさらら/後の持統天皇)こそが首謀者だったと考えるべきでしょう。意外と思われるかもしれませんが、そう主張する識者が実は少なくないのです。

もともと天智天皇亡き後、皇位を継ぐはずだったのは大海人の方でした。皇位を継ぐ資格の一つとして、母が皇族出身者であることが当然のごとく思われていた時代ですから、母が地方豪族の娘であった大友が皇位を継ぐとは誰も思っていなかったでしょう。ところが、近江大津に都を遷された頃から、状況が変わってきました。大津宮に遷都したこと自体、大友の継承を意識したものと推測されるからです。

なぜならその辺りは、伊賀を含めて大友を養育した豪族・大友氏の本拠地だったからです。それでも、天智天皇がそこで即位した後、しばらくは弟の大海人を次期後継者としていました。天智天皇にまだ迷いがあったのでしょうか。ところが、それから2年後、大友が太政大臣(だいじょうだいじん/最高位の官)に任命されたことで、状況が一変。皇位継承者が大友に移ったことを、暗に表明したようなものだったからです。

これに危機感を抱いたのが、実は大海人本人ではなく、その妻・鸕野讚良だったと思えるのです。鸕野讚良には、大海人との子である草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたいとの篤き思いがありました。もし、大友に皇位が移れば、その次の皇位は、大友の子・葛野王(かどののおう)へと移ってしまいます。当事者である大海人にとって見れば、葛野王は娘・十市皇女(とおちのひめみこ)の子、つまり、自身の孫に皇統が継がれるわけですから、それほど不服はないのですが、鸕野讚良だけは必死でした。実力を行使、つまり戦火を交えてでも、大友の皇位継承を阻止したいとの思いがあったのです。
 




相関図

 


夫・大海人に反旗を翻すよう口説いたのも、おそらく彼女だったのでしょう。吉野隠棲から東国への出奔に到るまでの計略を練ったのは夫である大海人だったかもしれませんが、その夫を終始叱咤激励していたのが彼女だったのです。

鸕野讚良こと後の持統天皇といえば、草壁皇子の皇位継承の障害となった大津皇子(おおつのみこ)を除くため、大津皇子に謀反の罪を着せて自害に追いやったほどの人物でした。単に皇后として天皇を陰で支えるようなしとやかな女性ではなく、むしろ野心あふれる女帝だったのです。大海人は、夫唱付随(ふしょうふずい)で、用意周到、謀略を駆使して戦いに挑んだと考えられるのです。
 

不破道(ふわのみち)を塞いだことで勝利を手に


では、なぜ大海人は吉野へと隠棲したのでしょうか? それは、疑心暗鬼な天智天皇の目を欺くためということはもちろんのこと、挙兵準備のための時間を稼ぐためでもありました。

舎人の朴井連雄君に近江朝の動向を探らせるとともに、美濃国安八麿郡(あはちまのこおり)の大海氏ばかりか、同族であった尾張氏にも協力を要請するのに時間が必要だったからです。全ての準備が整い終えたのが6月24日。まさに、吉野出立の日だったのです。
 


野上の行宮跡

▲野上の行宮跡。大海人はここに入って、大友の軍と戦った

 


伊賀から伊勢へと向かううちに、先発隊から当初の予定通り、不破道を塞いだとの報告がありました。この近江朝による徴兵は、各地に派遣された国司(こくし/国の行政官。中央から派遣された官吏)が朝廷の意を受けて命じたものですが、地元の豪族を大海人側が取り込んだことで、不破道封鎖後、国司の意思など無視して容易に寝返らせることができたのです。

いずれにしても、不破道を塞がれたことで、兵を近江朝に送ることができませんから、そっくりそのまま大海人側のものになったことに変わりはありませんでした。つまるところ、不破道を塞いだ時点で、大海人側の勝利は、ほぼ確実なものになっていたのです。

ちなみに、西国は白村江の戦い(倭・百済軍と唐・新羅軍との戦い)に兵を駆り出されて疲弊していましたから、頼りになりません。しかも、近江朝はさらなる新羅派兵を目論んでいましたから、戦いを忌避したいと願う西国の人々は、近江朝に与したくなかったのです。
 

「王者の風格」が足を引っ張った?


おそらく、大海人の突如の吉野出立(近江朝からみれば謀反)に驚いたのは、大友の方でしょう。両陣営の戦力を比較してみれば、近江朝の方が上でした。万が一戦うことになっても、大友は負けることなどあり得ないとタカをくくっていたことでしょう。

しかし、実際に戦が始まると、大友の見込みに反して戦は展開していきます。この戦いぶりを見る限り、大友は大海人の謀に気がつかなかったとしか思えないのです。何の心づもりもないまま手をこまねいているうちに敗れてしまった…と言うのが、壬申の乱の実情だったのではないでしょうか。
 


野上の行宮跡

▲両軍の兵士が流した血で川が黒く染まったという黒血川

 


では、開戦後の勝敗の決め手は、何だったのでしょうか? それは、2人の性格の違いにヒントが隠されているようです。大海人は、兄・天智天皇と同じく、父は舒明天皇(じょめいてんのう)、母は宝皇女(たからのおうじょ/皇極、斉明天皇)です。ただし、これは『日本書紀』に記されたもので、2人は実の兄弟ではなかった、あるいは兄と弟の年齢が逆転するなど諸説が飛び交い、その関係は謎めいています。

鸕野讚良をはじめ兄の娘を4人も弟が娶っているのも奇妙です。なんらかの思惑があったことは間違いないでしょう。また、弟の妃であった額田王(ぬかたのおおきみ)は、後に兄が寵愛したことで、三角関係が取りざたされることもありました。

ともあれ、絶大な権力を誇る兄・天智天皇に対して、弟である大海人は常に兄の顔色を伺いながら生き延びざるを得なかったのは確かなようです。猜疑心の強さも、そんなところから芽生えてきたのかもしれません。

一方、細心の注意を払って生き延びざるを得なかった大海人と違って、父・天智天皇から期待を寄せられ続けてきた大友は、王者の風格さえ漂っていたことでしょう。猜疑心というような邪心を抱くことを忌避する傾向があったのかもしれません。それゆえに、叔父・大海人の謀に気付かなかったのでしょう。

本来なら、大海人が挙兵した時点で、即座に兵を送り込んで討伐すべきだったにもかかわらず、なぜか、しばし静観してしまいました。王者が関わる戦いなのですから、捨て置いても問題ないとでも思ったのでしょうか。速やかなる追撃をしなかったことも敗因の一つでした。「破れることはない」との過信があったに違いありません。

これが結果として、兵の弱体化にまで繋がっていきました。最後の戦いの舞台となった瀬田大橋において、大友自身が威厳を見せ付けようと、戦場にのこのこと姿を見せたことも逆効果でした。かえって、敵の戦意を盛り上げてしまったからです。この辺りの機微に欠けるところも、大きな欠点でした。
 




大友の首を葬ったという自害峯の三本杉

▲大友の首を葬ったという自害峯の三本杉

 




茶臼山古墳

▲大友と重臣たちの塚がある茶臼山古墳

 


最後には、敗走して戦況を立て直す意欲も見せぬまま、あっけなく自害。ここでも、「王者の風格」が足を引っ張りました。叩き上げの苦労人なら、どこまでもしぶとく生き抜いて、最後の最後に勝利を掴み取ってやるとの執念で逃げのびたでしょうが、哀しいかな、大友には、そんな泥臭いことはできませんでした。

私には、大海人の謀略を見抜くことができなかったばかりか、戦いに際しても「王者の風格」にこだわり続けたことが敗因だったと思えてならないのです。
 

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藤井勝彦

PROFILE
藤井勝彦/ライター
1955年、大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。編集プロダクション・フリーポート企画代表を経て、2012年より著述業に専念。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』『邪馬台国』『神々が宿る絶景100』など日本古代史にまつわる著述が多い。また、『三国志合戦事典』『三国志英雄たちの足跡』『図解三国志』などの三国志本の他、『図解ダーティヒロイン』『中国の世界遺産』『世界遺産富士山を行く』『世界の国ぐにビジュアル事典』などの著書もある。現在、日刊紙『交通新聞』にて、「古代史の旅」(全88回を予定)を連載中。
 
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▲最大の激戦地となった瀬田の唐橋

 


※以下史実をもとにした筆者独自の考察、見解が含まれます。 


壬申の乱は、天智天皇(てんじてんのう)の皇太子「大友皇子」(おおとものおうじ)と天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ)による皇位継承を発端とした内乱です。約1か月間の内乱に勝利したのは、後に天武天皇(てんむてんのう)となる「大海人」。

乱に勝利した大海人は後に天武天皇となり、日本を律令国家にするためにさまざまな政策を打ち出しました。もし、大友が勝利していたら、日本の国家成立が遅れていた可能性もあり、壬申の乱は古代日本のターニングポイントとなる大事件でした。

乱が勃発した通説となっているのは「大友が大海人に奇襲をしかけ、大海人は止むに止まれず反撃を開始した」というものですが、実際はそうではなかったのではないかとも言われています。その理由は、壬申の乱に関する記録が、大海人側によって作られた「勝者の歴史」だから。

では、実際の壬申の乱とはどのようなものだったのでしょうか?
通説なっている「大友=悪者、大海人=善人」という構図は事実なのか?

大友と大海人の関係性や乱の戦況などを振り返りながら、壬申の乱の真実に迫ってみたいと思います。
 


藤井勝彦

PROFILE
藤井勝彦/ライター
1955年、大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。編集プロダクション・フリーポート企画代表を経て、2012年より著述業に専念。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』『邪馬台国』『神々が宿る絶景100』など日本古代史にまつわる著述が多い。また、『三国志合戦事典』『三国志英雄たちの足跡』『図解三国志』などの三国志本の他、『図解ダーティヒロイン』『中国の世界遺産』『世界遺産富士山を行く』『世界の国ぐにビジュアル事典』などの著書もある。現在、日刊紙『交通新聞』にて、「古代史の旅」(全88回を予定)を連載中。
 

大海人の「やむなく挙兵」は作り話


「何ぞ黙して身を亡さむや」
天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位を甥である大友皇子に譲らんと、自ら清く身を引き、吉野へ隠棲したというのが『日本書紀』が記す情景です。
 


吉野山

▲吉野花矢倉展望台から大海人が隠棲した吉野山を望む

 


吉野へ向かったのは、天智天皇4(665)年10月19日のことでした。それから半年、大海人に仕えていた舎人(とねり)・朴井連村雄君(えのいのむらじおきみ)が、気になる報告をもたらしてきました。大友率いる近江朝が、天智天皇の山陵(墓)を築くとしながらも、その実、人夫に武器を持たせているというのです。さらに、吉野への糧道まで塞いでいるとも。

これを耳にした大海人が、大友の開戦準備が進んでいることを知って、咄嗟に口を衝いて出たのが、冒頭の悲痛な叫び声だったのです。「このまま黙って身を滅ぼしてなるものか!」と、降りかかった火の粉を振り払うかのように、開戦の決意を表明しています。壬申の乱といえば、大海人と大友が皇位継承をめぐって繰り広げられた内乱ですが、その戦闘開始の合図ともいえるのが、このひと言でした。
 


津風呂湖

▲矢治峠から望む津風呂湖。吉野から出陣した大海人は、矢治峠を越えてこのあたりで隊伍を整え、宇陀に向かった

 


ところが、慌てて吉野を脱出したといいながらも、その後の展開は、実に効率の良いものでした。大海人は即座に不破道(ふわのみち/東国と西国をつなぐ重要な道)を塞いだばかりか、東国の兵をも結集。各地で繰り広げられた戦闘のほとんどが連戦連勝。わずか1か月足らずで戦いを制して勝利を掴みとったという、実に手際の良いものだったのです。

予期せず戦いをけしかけられ、止むに止まれず反撃を開始したとはとても思えない周到ぶりに、違和感を覚えざるを得ません。いうまでもなく、大海人の「やむなく挙兵」というのは、『日本書紀』編纂者の創作。そもそも、戦いの計画を練ったのも仕掛けたのも、大海人側の方だったとしか考えようがないのです。
 


滋賀県東近江市の万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ

▲滋賀県東近江市の万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ。  天武と天智が仲良く狩りをしている

 

夫婦仲良く戦いの準備を行う


では、その首謀者は、大海人だったのでしょうか? 結論から先に言うと、その妻・鸕野讚良(うののさらら/後の持統天皇)こそが首謀者だったと考えるべきでしょう。意外と思われるかもしれませんが、そう主張する識者が実は少なくないのです。

もともと天智天皇亡き後、皇位を継ぐはずだったのは大海人の方でした。皇位を継ぐ資格の一つとして、母が皇族出身者であることが当然のごとく思われていた時代ですから、母が地方豪族の娘であった大友が皇位を継ぐとは誰も思っていなかったでしょう。ところが、近江大津に都を遷された頃から、状況が変わってきました。大津宮に遷都したこと自体、大友の継承を意識したものと推測されるからです。

なぜならその辺りは、伊賀を含めて大友を養育した豪族・大友氏の本拠地だったからです。それでも、天智天皇がそこで即位した後、しばらくは弟の大海人を次期後継者としていました。天智天皇にまだ迷いがあったのでしょうか。ところが、それから2年後、大友が太政大臣(だいじょうだいじん/最高位の官)に任命されたことで、状況が一変。皇位継承者が大友に移ったことを、暗に表明したようなものだったからです。

これに危機感を抱いたのが、実は大海人本人ではなく、その妻・鸕野讚良だったと思えるのです。鸕野讚良には、大海人との子である草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたいとの篤き思いがありました。もし、大友に皇位が移れば、その次の皇位は、大友の子・葛野王(かどののおう)へと移ってしまいます。当事者である大海人にとって見れば、葛野王は娘・十市皇女(とおちのひめみこ)の子、つまり、自身の孫に皇統が継がれるわけですから、それほど不服はないのですが、鸕野讚良だけは必死でした。実力を行使、つまり戦火を交えてでも、大友の皇位継承を阻止したいとの思いがあったのです。
 




相関図

 


夫・大海人に反旗を翻すよう口説いたのも、おそらく彼女だったのでしょう。吉野隠棲から東国への出奔に到るまでの計略を練ったのは夫である大海人だったかもしれませんが、その夫を終始叱咤激励していたのが彼女だったのです。

鸕野讚良こと後の持統天皇といえば、草壁皇子の皇位継承の障害となった大津皇子(おおつのみこ)を除くため、大津皇子に謀反の罪を着せて自害に追いやったほどの人物でした。単に皇后として天皇を陰で支えるようなしとやかな女性ではなく、むしろ野心あふれる女帝だったのです。大海人は、夫唱付随(ふしょうふずい)で、用意周到、謀略を駆使して戦いに挑んだと考えられるのです。
 

不破道(ふわのみち)を塞いだことで勝利を手に


では、なぜ大海人は吉野へと隠棲したのでしょうか? それは、疑心暗鬼な天智天皇の目を欺くためということはもちろんのこと、挙兵準備のための時間を稼ぐためでもありました。

舎人の朴井連雄君に近江朝の動向を探らせるとともに、美濃国安八麿郡(あはちまのこおり)の大海氏ばかりか、同族であった尾張氏にも協力を要請するのに時間が必要だったからです。全ての準備が整い終えたのが6月24日。まさに、吉野出立の日だったのです。
 


野上の行宮跡

▲野上の行宮跡。大海人はここに入って、大友の軍と戦った

 


伊賀から伊勢へと向かううちに、先発隊から当初の予定通り、不破道を塞いだとの報告がありました。この近江朝による徴兵は、各地に派遣された国司(こくし/国の行政官。中央から派遣された官吏)が朝廷の意を受けて命じたものですが、地元の豪族を大海人側が取り込んだことで、不破道封鎖後、国司の意思など無視して容易に寝返らせることができたのです。

いずれにしても、不破道を塞がれたことで、兵を近江朝に送ることができませんから、そっくりそのまま大海人側のものになったことに変わりはありませんでした。つまるところ、不破道を塞いだ時点で、大海人側の勝利は、ほぼ確実なものになっていたのです。

ちなみに、西国は白村江の戦い(倭・百済軍と唐・新羅軍との戦い)に兵を駆り出されて疲弊していましたから、頼りになりません。しかも、近江朝はさらなる新羅派兵を目論んでいましたから、戦いを忌避したいと願う西国の人々は、近江朝に与したくなかったのです。
 

「王者の風格」が足を引っ張った?


おそらく、大海人の突如の吉野出立(近江朝からみれば謀反)に驚いたのは、大友の方でしょう。両陣営の戦力を比較してみれば、近江朝の方が上でした。万が一戦うことになっても、大友は負けることなどあり得ないとタカをくくっていたことでしょう。

しかし、実際に戦が始まると、大友の見込みに反して戦は展開していきます。この戦いぶりを見る限り、大友は大海人の謀に気がつかなかったとしか思えないのです。何の心づもりもないまま手をこまねいているうちに敗れてしまった…と言うのが、壬申の乱の実情だったのではないでしょうか。
 


野上の行宮跡

▲両軍の兵士が流した血で川が黒く染まったという黒血川

 


では、開戦後の勝敗の決め手は、何だったのでしょうか? それは、2人の性格の違いにヒントが隠されているようです。大海人は、兄・天智天皇と同じく、父は舒明天皇(じょめいてんのう)、母は宝皇女(たからのおうじょ/皇極、斉明天皇)です。ただし、これは『日本書紀』に記されたもので、2人は実の兄弟ではなかった、あるいは兄と弟の年齢が逆転するなど諸説が飛び交い、その関係は謎めいています。

鸕野讚良をはじめ兄の娘を4人も弟が娶っているのも奇妙です。なんらかの思惑があったことは間違いないでしょう。また、弟の妃であった額田王(ぬかたのおおきみ)は、後に兄が寵愛したことで、三角関係が取りざたされることもありました。

ともあれ、絶大な権力を誇る兄・天智天皇に対して、弟である大海人は常に兄の顔色を伺いながら生き延びざるを得なかったのは確かなようです。猜疑心の強さも、そんなところから芽生えてきたのかもしれません。

一方、細心の注意を払って生き延びざるを得なかった大海人と違って、父・天智天皇から期待を寄せられ続けてきた大友は、王者の風格さえ漂っていたことでしょう。猜疑心というような邪心を抱くことを忌避する傾向があったのかもしれません。それゆえに、叔父・大海人の謀に気付かなかったのでしょう。

本来なら、大海人が挙兵した時点で、即座に兵を送り込んで討伐すべきだったにもかかわらず、なぜか、しばし静観してしまいました。王者が関わる戦いなのですから、捨て置いても問題ないとでも思ったのでしょうか。速やかなる追撃をしなかったことも敗因の一つでした。「破れることはない」との過信があったに違いありません。

これが結果として、兵の弱体化にまで繋がっていきました。最後の戦いの舞台となった瀬田大橋において、大友自身が威厳を見せ付けようと、戦場にのこのこと姿を見せたことも逆効果でした。かえって、敵の戦意を盛り上げてしまったからです。この辺りの機微に欠けるところも、大きな欠点でした。
 




大友の首を葬ったという自害峯の三本杉

▲大友の首を葬ったという自害峯の三本杉

 




茶臼山古墳

▲大友と重臣たちの塚がある茶臼山古墳

 


最後には、敗走して戦況を立て直す意欲も見せぬまま、あっけなく自害。ここでも、「王者の風格」が足を引っ張りました。叩き上げの苦労人なら、どこまでもしぶとく生き抜いて、最後の最後に勝利を掴み取ってやるとの執念で逃げのびたでしょうが、哀しいかな、大友には、そんな泥臭いことはできませんでした。

私には、大海人の謀略を見抜くことができなかったばかりか、戦いに際しても「王者の風格」にこだわり続けたことが敗因だったと思えてならないのです。
 

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1955年、大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。編集プロダクション・フリーポート企画代表を経て、2012年より著述業に専念。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』『邪馬台国』『神々が宿る絶景100』など日本古代史にまつわる著述が多い。また、『三国志合戦事典』『三国志英雄たちの足跡』『図解三国志』などの三国志本の他、『図解ダーティヒロイン』『中国の世界遺産』『世界遺産富士山を行く』『世界の国ぐにビジュアル事典』などの著書もある。現在、日刊紙『交通新聞』にて、「古代史の旅」(全88回を予定)を連載中。
 

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