各界の識者が語る「わたしの記紀・万葉」

第19回 京都産業大学教授 森 博達氏

『日本書紀』に書かれている言葉を検討し、文体を分析する。
そこで初めて文書の巧拙や虚実が判り、
著書の意図や立場をうかがうことができる。

森 博達氏

日中、中韓、日韓のトライアングルを結ぶ

まずは専門分野について教えてください。
専門は東アジア語文交渉史です。日中韓のトライアングルを結ぶ研究を志向しています。本来は中国語と日本語の交流の歴史が中心ですが、関連して朝鮮語の歴史も研究しています。中でも特に『日本書紀』(30巻、720年撰)の表記の研究に努めてきました。『日本書紀』は漢文で書かれていますが、純粋な中国語の巻々と日本語化した漢文の巻々に分かれるのです。後者にはさらに朝鮮漢文の特徴も混じります。そこで15年前にソウルで韓国語を1年間学びました。その後、韓国の学会などで講演や講義をする機会も増えました。
中韓間の交流については、『雞林類事』(1103年撰)の音訳漢字を研究しました。中国人が高麗語の語彙を中国語で音訳したものですが、高麗語のアクセントまで中国語の音で表記していることがわかりました。

『日本書紀』区分論

専門分野にご興味を持たれたきっかけは何ですか?
大阪外国語大学で辻本春彦先生に私淑し、中国語音韻学のゼミに入りました。ゼミの発表では特に、『日本書紀』の万葉仮名を取り上げました。これによって700年頃の日本語と中国語の音韻を復元しようと思ったのです。これが面白くなり、名古屋大学大学院に進み、漢字音の相違から書紀区分論を提唱しました。
この研究は『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)に結実しました。書紀には128首の歌謡などが万葉仮名で表記されています。この漢字音を分析して書紀30巻をα群(巻14―21・24-27)とβ群(巻1―13・22―23・28-29)に区分しました。α群は渡来中国人が日本語を中国音で表記したものであり、日本語のアクセントまで中国語の声調(アクセント)で完全に表記した歌もあります。α群によれば、当時の日本語の子音、母音、アクセントまで復元できるのです。

α群とβ群は文章も異なる

α群とβ群は音韻の違いだけですか。
音韻による書紀区分論の後、文章論に着手しました。結果は音韻論と軌を一にしました。α群は正格漢文で書かれており、β群は倭習と呼ばれる文法上の誤用・奇用に満ちており、中国語で読むと理解できません。また二種の暦の使用状況などから、α群の執筆がβ群に先行したことも分かりました。
『日本書紀』をより深く楽しむにはどのような方法が考えられますか?
書紀は編修の最終段階で少なからず加筆されました。加筆者は漢文作成能力が低く、また語彙や語法には特有の個性があります。そこから書紀のどの記事をどのような意図で書き換えたのかが明らかになります。
書紀区分論は難しくありません。IT環境の進展により、今では誰でもできます。パソコンで適当な語彙を検索すれば、その分布が一発で分かるからです。『日本書紀』をより深く楽しめるのではないでしょうか。

古代の音声を復元してみては

『古事記』『日本書紀』『万葉集』に興味を持ってもらうために、「こんなことをやってみたらおもしろいのでは?」といったご提言があればぜひ。
2008年の源氏物語千年紀の際、当時所長をしていた京都産業大学の日本文化研究所でも、独自の企画を立てました。千年前の音韻とアクセントを復元して、源氏物語を読むのです。NHKアナウンサーの渡邊あゆみさんに「桐壺」など3篇のさわりを復元音で朗読してもらいました。源氏物語は本来、宮中で朗読されていました。渡邊さんの素晴らしい朗読に満席の聴衆は息をのみました。千年前にタイム・トリップしたようでした。
古代の着物や食べ物、建物などを復元するプロジェクトは多いのですが、音の復元はあまりありません。奈良県のプロジェクトでも、奈良時代の音韻・アクセントで記紀・万葉を朗読すれば面白いと思います。
その手始めに、「復元音で読む古典―卑弥呼から徒然草まで―」(『日本語学』2015年8月号)を著しました。
形のない、音の復元とはおもしろいですね。本日はありがとうございました。
もり・ひろみち
プロフィール
1949年兵庫県に生まれ。大阪外国語大学外国語学部中国語学科卒業。名古屋大学大学院博士課程(中国文学専攻)中退。愛知大学専任講師、同志社大学助教授、大阪外国語大学助教授を経て、京都産業大学教授。
東アジア語文交渉史の研究、音韻・漢語・漢文にわたる語文交渉史の研究に努めている。『日本書紀』30巻中、α群(巻14~21、24~27)の万葉仮名が渡来中国人により表記されていることを証明し、このα群によって当時の日中両言語の音韻を復元した。この区分は文章でも認められ、β群(巻1~13、22~23、28~29)は倭習に満ちているが、α群は原則として、正格漢文により述作されていることを明らかにした。さらにβ群を中心として、古代韓国の変格漢文との共通点も指摘した。
著書に『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』(中央公論新社 第54回毎日出版文化賞)、『日本書紀 成立の真実―書き換えの主導者は誰か―』(中央公論新社)などがある。