記紀・万葉講座

「当麻蹶速(たぎまのくえはや)伝説に秘められた謎を探る―真の顕宗(けんぞう)・武烈(ぶれつ)天皇陵はどこか―」

記紀・万葉リレートーク 第7回 葛城市

2013年2月2日(土) 13:30~
会場・葛城市相撲館

講師・堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口 義信(つかぐち・よしのぶ)氏
演題・「当麻蹶速伝説に秘められた謎を探る―真の顕宗・武烈天皇陵はどこか―」

チラシにリンク


 

概況

平成25年2月2日に、葛城市相撲館にて、第7回目の「記紀・万葉リレートーク」を開催しました。
講演開始前に地元の相撲甚句会の方の飛び入りで相撲甚句が謡われました。相撲館での講演と相撲甚句という、普段見ることができない取り合わせの趣向で、情緒的な余韻により、講演に対する期待感が高まりました。
13時30分から開演し、葛城市長の挨拶の後、「当麻蹶速伝説に秘められた謎を探る―真の顕宗・武烈天皇陵はどこか―」と題し、堺女子短期大学名誉学長 名誉教授 塚口 義信氏にお話しいただきました。
顕宗・武烈天皇陵が実際どこにあるのか、先生の持論を踏まえたお話しに、講演終了後も先生に質問する受講者もいました。


 地元の相撲甚句会の方々の飛び入りで、相撲甚句が謡われる/葛城市長の挨拶

 

講演の概要

「『日本書記』垂仁七(紀元前二三)年七月七日条に、当麻蹶速と野見宿禰に相撲をとらせた話が記されている。勿論、一つの伝説であって、年月日はもとより、二人が実在の人物であったという確証もない。しかし、それにしても、なぜ七月七日のこととされているのか。実は、奈良・平安時代には相撲節(すまいのせち)といって、七月七日に宮廷で相撲が行われ、それを天皇が観覧するという儀式があった。おそらくこの儀式と関係しているものと思われる。それはともかく、この話を伝えたのは、どのような氏族であったのか。それはいうまでもなく、野見宿禰を祖とする土師氏(はじし)であったと考えられる。そのことは、強力を誇っていた蹶速との力競べに宿禰が勝ち、その功によって当麻邑の腰折田付近の土地を賜ったとする話の顛末からして明らかである。

土師氏は出雲系の豪族で、後に大枝・秋篠・菅原など四氏に分かれて各方面で活躍するが、本来の職掌は埴輪や土器の製作、陵墓の築造・管理などであった。それゆえ土師氏の居住地付近には決まったように天皇陵の伝承があり、また実際に大王墓とみられる古墳が存在する。例えば真の継体陵と考えられる今城塚古墳(高槻市)の近くには野見里があったし、今も野見神社がある。平城宮跡の北には成務陵(佐紀石塚山)古墳や神功陵(五社神(ごさし)古墳)があるが、近くに秋篠町がある。また垂仁陵(宝来山古墳)の北には菅原町があり、ここでは埴輪の窯跡や居館跡が見つかっている。さらに百舌鳥古墳群や古市古墳群の付近には土師郷があったし、後者には土師寺も建立されていた。

 会場の様子/当麻蹴速伝説の謎について語る塚口氏


そうすると、腰折田付近に居住していた土師氏もまた、大王墓の造営に関わっていた可能性がある。
そこで注目されるのが、腰折田の地と考えられる香芝市磯壁の伝「腰折田」の北東約六百メートルの所に、狐井城山(きついしろやま)古墳が営まれていることである。
この古墳は墳丘長約百五十メートルの前方後円墳で、六世紀初頭という時期においては、片岡(王寺町~大和高田市)の地域で最も大きい古墳である。まさしく大王墓級の古墳であるといってよい。ところが興味深いことに、『古事記』『日本書紀』によると、この片岡の地域には武烈天皇の陵墓が営まれたと伝えられているのである。
時期も六世紀初頭のことで、右の古墳の年代とも合致する。

とすると、狐井城山古墳は真の武烈陵である可能性が非常に大きいといえる。腰折田付近に居住していた土師氏は、武烈陵の造営に携わっていたものと考えられるのである。なお、以上の推定が正しいとすれば、この古墳のすぐ北に所在する狐井稲荷古墳は、武烈の叔父に当たり、後に「大王」号を奉られたとみられる顕宗天皇の奥津城である蓋然性が高い。


【講師プロフィール】
塚口 義信(つかぐち・よしのぶ)/堺女子短期大学名誉学長・名誉教授
1946年大阪府生まれ。
関西大学講師、堺女子短期大学教授・学長などを経て、現在、堺女子短期大学名誉学長・名誉教授。文学博士。
研究領域は日本古代史、文化人類学。