記紀・万葉講座

 『書紀』の語るヤマト王権と河内

日本書紀を語る講演会 第4回 王寺町

2016年12月17日(土)13時00分~14時40分
会場・王寺町地域交流センター リーベルホール
講師・明治大学名誉教授 吉村武彦(よしむらたけひこ)氏
演題・『書紀』の語るヤマト王権と河内


 

講演の内容

 本講演ではヤマト王権の話を中心に、それが河内地域と、どのようなつながりを持つのかということを紹介していく。

 天皇の漢風諡号は760年代に淡海三船が初代神武から第40代持統天皇までと第42代元明天皇、第43代元正天皇におくられたのが最初である。例えば第26代継体天皇は文字通り、「体制を継いだ天皇」なのであり、第33代推古天皇は「古(いにしえ)を推量する天皇」となり、古事記が推古天皇までの歴史が記されていることに関係しているのであろう。また、日本書紀を締めくくる持統天皇は「王統を維持した天皇」ということである。推古と持統、記紀を締めくくる二人の女帝は、推古天皇の次に即位した第34代舒明天皇、持統天皇の次に即位した第41代文武天皇ともに、孫の世代が即位したという点も共通するのは興味深い。

 ※淡海三船の時代は大友皇子の即位は承認していないので、現在の代数と異なる。

 古事記と日本書紀のもととなったのは「帝紀」と「旧辞」である。古事記の序文にこの書物の名が記されており、帝紀・旧辞に何が書かれているのかを知ることが、古事記・日本書紀を知るうえで重要なことであると思う。国文学者の武田祐吉氏の説では古事記に記されている天皇の続柄・名・宮、および治天下の年数・妃と子、およびその業績などは帝紀を参考にしたという。それに対し、旧辞は物語的なものであると考えられ、第23代顕宗天皇までは旧辞が書かれていたとされている。ともに成立は6世紀前半(武田氏は一部は5世紀末と指摘)、継体天皇から欽明天皇の頃であるといわれていた。5世紀後半の同時代史料として埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣が出現し、帝紀の成立はさかのぼることになる。

 この鉄剣から辛亥年(471年)という年代と「獲加多支鹵(ワカタケル)」という名前から第21代雄略天皇の実在と、その8代に渡る系譜や宮の名前を知ることができる。そして、8代の系譜の中にオホヒコと読める名前があり、これは第10代崇神天皇の時代に活躍した人物に比定される。

 日本書紀には「はつくにしらすスメラミコト」、初めて国を治めた天皇と呼ばれる天皇が二人いる。初代神武天皇(始馭天下之天皇)と第10代崇神天皇(御肇國天皇)である。実在する最初の天皇は崇神天皇からとする学説があり、私も崇神天皇の時代あたりからヤマト王権が始まったものと考えている。その崇神天皇の事績に、四道将軍の派遣、人口調査と課役、任那からの朝貢など政治的な記事が出てくる。その時期は崇神天皇陵の行燈山古墳の築造から考え、4世紀前半であろう。それでは、崇神天皇から始まったとされるヤマト王権とはどんな性格のものなのか。

ヤマト王権とは、大和のいくつかの氏族が利害関係を超越して成立した連合体が基となったと考える。そして、奈良盆地の南北に位置する大和古墳群・馬見古墳群と佐紀古墳群、大阪平野には古市古墳群と百舌鳥古墳群および摂津の三島古墳群などの分布をもとに検証すると、初期のヤマト王権の勢力圏は奈良盆地を中心とし、それが次第に広がり、のちに河内地域を含めた連合体が形成されていく。5世紀になると、古市古墳群と百舌鳥古墳群から交互に巨大な前方後円墳は築造され、河内には2つの王家があったという見方もある。文献からも「宋書」倭国伝のいわゆる「倭の五王」の系譜には珍と済のつがなりが書かれておらず、これを2つの王家が存在したととらえる説もあるが無理だと思われる。

古事記には第2代綏靖天皇から第33代推古天皇まで、もれなく王宮の場所が記されている。第15代応神天皇以降の王墓は河内地域に集中しているが、王宮は基本的には、大和であったことに間違いはない。私は記紀などの文献から崇神天皇からヤマト王権が始まると考えているが、考古学的には前方後円墳の成立をもってヤマト王権が始まったと考えるのが通説のようである。そして前方後円墳の成立をいつに求めるかという点は議論が分かれるところではあるが、定型的規格をもつ前方後円墳の成立を古墳時代の始まりとするなら、その最古のひとつは箸墓古墳に求められる。すると、崇神天皇陵(行燈山古墳)と箸墓古墳の築造時期にズレが生じてしまう。私は崇神天皇以前に造られた前方後円墳については「プレヤマト王権」のものであると考え、両者の祭祀には断絶はなかったものとみている。つまり、ヤマト王権成立後に、前代の前方後円墳祭祀を継承したと考えている。

 河内王朝論については様々な説がある。いくつか紹介すると、①大和、河内以外の勢力が征服した。②大和地域から河内地域へ移った。③考古学的アプローチなどがあり②の王朝交代論が主流である。王宮はおそらく上町台地の北方にあったのであろう。しかし、河内王朝論は、はたして成立するであろうか。河内地域には大伴氏や物部氏など名負いの氏の連(むらじ)系の氏族が拠点を持っているが、大和にも本来の政治的拠点がある。それ以外は中小の氏族である。大和の氏族が主体で、河内地域の開発が行われたのではないかと考える。

王寺町1


王寺町2

【講師プロフィール】
1945年(昭和20年)、朝鮮・大邱生まれ。京都、大阪育ち。博士(文学)。東京大学文学部卒業。東京大学助手、千葉大学教授等を経て、1990年に明治大学文学部教授。文学部長、大学院長を歴任し、現在は明治大学名誉教授。専門は日本列島の古代史。主著に『日本古代の社会と国家』(岩波書店)、『古代天皇の誕生』(角川選書)、『聖徳太子』・『ヤマト王権』・『女帝の古代日本』・『蘇我氏の古代』(いずれも岩波新書)。編著に『古代史の基礎知識』(角川選書)。
共編著に『列島の古代史』(全8巻、岩波書店)など多数。