記紀・万葉講座

日本書紀と道路

日本書紀を語る講演会 第10回 王寺町

2016年3月5日(土)13時00分~14時30分
会場・王寺町地域交流センター リーベルホール
講師・文化庁 文化財調査官 近江 俊秀(おおみとしひで)氏
演題・日本書紀と道路

パンフレットにリンク


 

講演の内容

道路を研究することによって日本古代史がどのような形で見えてくるのかということを考えたとき、最も重要な資料となるのが『日本書紀』である。天武天皇の目指した、全ての権限が天皇に集まる中央集権的な国をつくるにあたって、天皇の神聖性、皇統の継続性を示すために作られたのが『日本書紀』である。天武天皇の諸改革は、中央主権体制確立のための諸施策の実施ということができる。


交通網の整備や制度の確立は、戸籍制度の導入や地方行政システムの構築と並んで、中央集権を実現するための三本柱の一つであった。つまり、古代道路の編成を見て行くことによって、古代国家がどのように地方支配を行っていったのかということがわかるのである。古代道路は、北は岩手県から南は鹿児島県まで全国各地で発掘されているが、それらの道路がいつ、誰によって、どんな目的で作られたのかは『日本書紀』に明記されておらず、当時の時代背景や実施された政策から考証をしていく必要がある。古代道路の研究とは考古学・文献史学・歴史地理学・土木工学など様々な分野の学問のコラボレーションであり、それが1つの魅力である。


古代道路の特徴として、とにかく真っすぐであることを目指しており、幅員を明らかにするために側溝が設けられていたことが挙げられる。これは、律令国家の力を見せつけるために、実用性だけでなく象徴性を持たせたもので、その結果として土壌の質の劣悪な場所でも構うことなく道路を整備していた。通行の安全性を保つために様々な土木工法も用い、補修や維持管理にも力を注いだが、劣悪な場所に無理をして造られた道は、中央集権の体制が崩れた後には放置され、現在は残っていないものが多い。このような計画道路はローマ帝国や中国王朝など、中央集権国家は必ず作っているが、同じように体制が崩れ命令を下すものが消えると、道もまた廃絶されていった。日本の場合も、中央集権体制の実現と同時にこういった道路が現れているため、中央集権に向かって最も熱心に取り組んだ天武天皇の時代にこういった道路が日本中に整備されたという可能性は高い。


古代道路はあくまでも中央が支配をするためのものであり、中央の都合によって作られていた。中央集権から地方の時代に移っていくと、必要な幅を残して削られたり、利用の少ない場所は廃れていくことが多かった。国家が成立するときに同じく道路ができて、その国家が廃絶していくと道路も廃絶していく。道路が歴史を語っているということができる。奈良や河内という地域においては、推古朝につくられたと思われる道路が今なお残っている。これは、古代国家の中心地であったからこそ、その道路と一般の人たちの生活空間とのマッチングに成功したということである。古代史をそのまま現在に受け継いでいる、道一本一本が古代を語っているというのが、この奈良の大きな魅力である。


 

 


【講師プロフィール】
近江 俊秀(おおみ・としひで)/文化庁 文化財調査官
1966年、宮城県生まれ。1998年奈良大学文学部文化財学科卒、1999年奈良県立橿原考古学研究所技師として採用、2009年文化庁文化財部記念物課埋蔵文化財部門文化財調査官、現在に至る。専門は、日本古代交通史。
著書に、『道が語る日本古代史』(朝日選書2012年・第1回 古代歴史文化賞なら賞受賞)、『日本の古代道路』(角川選書2014年)、『平城京の住宅事情:貴族はどこに住んでいたのか』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー2015年)など。