記紀・万葉講座

『日本書紀』の謎を探る-「日本紀」は『日本書紀』の単なる別称か-

日本書紀を語る講演会 第5回 河合町

2016年1月16日(土)13時00分~14時30分
会場・河合町中央公民館 集会室
講師・堺女子短期大学 名誉学長 塚口 義信(つかぐちよしのぶ)氏
演題・『日本書紀』の謎を探る-「日本紀」は『日本書紀』の単なる別称か-

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講演の内容

『日本書紀』は養老4年(720年)に完成した日本最古の勅撰の正史で、後に「日本紀」とも称されるようになったという説が、現在の学界のほぼ通説となっている。ところが、その根拠となっている「続日本紀」の記事には、『日本書紀』ではなく、「日本紀」となっている。すなわち、「是より先、一品舎人親王勅を奉りて「日本紀」修す。是に至りて功なりて奏上す。紀卅巻、系図一巻。」とある。これは一体、どういうことであろうか。


この記事を素直に読むと、「これより以前に、一品の舎人親王は勅命を受けて、「日本紀」を撰修してきた。このたび、それが完成したので、天皇に奏上した。奏上した「日本紀」の中味は、紀三十巻と系図一巻である。」ということになる。そして「弘仁私記」の序によると、「紀三十巻」は『日本書紀三十巻』で、「系図一巻」は「帝王系図一巻」であることがわかる。この「帝王系図一巻」はいつの頃か散逸して今に伝わっていないが、『日本書紀三十巻』の方はその写本が伝わっている。「紀」が『日本書紀』と称されていたことは、『万葉集』や、大宝令の注釈書の「古記」からも知られる。


したがって、「後に「日本紀」と称されるようになった『日本書紀』の成立は720年であり、奏上当時、本文三十巻のほかに系図一巻が附いていた」とする従来の解釈には無理があり、上記のように解釈されねばならない。


 

 


【講師プロフィール】
塚口 義信(つかぐち・よしのぶ)/堺女子短期大学 名誉学長
1946年、大阪府生まれ。関西大学講師、堺女子短期大学教授・学長などを経て、現在、堺女子短期大学名誉学長・名誉教授・文学博士。
奈良県香芝市文化財保護審議会会長、大阪府柏原市文化財保護審議会会長、奈良県北葛城郡河合町文化財保護審議会会長などを務める。
著書に、『神功皇后伝説の研究』(創元社1980年)、『ヤマト王権の謎をとく』(学生社1993年)、『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(共著・学生社2008年)など多数。