記紀・万葉講座

『日本書紀』区分論と記事の虚実

日本書紀を語る講演会 第1回 御所市

2015年11月28日(土)13時00分~14時30分
会場・御所市文化ホール(アザレアホール)
講師・京都産業大学 教授 森 博達(もりひろみち)氏
演題・『日本書紀』区分論と記事の虚実

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講演の内容

『日本書紀』は、日本最初の正史。その記述は神代に始まり、697年の持統天皇の譲位で終わる。『日本書紀』なしには七世紀以前の日本の歴史は語れず、日本古代史の研究にとって欠かせない文献である。ただし、『日本書紀』には史実だけが書かれているわけではない。また、『日本書紀』は『古事記』と違って漢文で書かれているので、『日本書紀』の文章を分析するには、古い中国語についての知識が不可欠である。


私は中国音韻学を応用し『日本書紀』研究を通じて、『日本書紀』が筆者と成立時期により三群に区分できるという「書紀区分論」を確立し、さらに語彙や文体、文法の分析を通じて、その成立過程を解明した。


『日本書紀』区分論研究は、以下の通りに分類されている。『日本書紀』の三十巻は表記の性格の相違によって、「巻十四」から「巻二十一」と「巻二十四」から「巻二十七」からなるα群、「巻一」から「巻十三」「巻二十二」「巻二十三」「巻二十八」「巻二十九」からなるβ群、そして「巻三十」という三区分に分類される。


α群は持統朝に、渡来中国人である続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)が正音により正格漢文で述作したと考えられる。守言は「巻十四」からを、弘恪は「巻二十四」からを担当した。文武朝になって山田史御方が倭音により和化漢文でβ群を撰述し、「巻三十」は元明朝に紀朝臣清人が著述した。同時に三宅臣藤麻呂がα、β両群にわたって漢籍などによる潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。清人の述作は倭習(日本人ならではの漢字漢文の誤用や奇用など)が少なかったが、藤麻呂の加筆には倭習が目立った。


「巻二十二」に収められている聖徳太子の「憲法十七条」は、文法的にも文体的にも立派な文章であるというのが通説になっているが、実は間違いだらけの文章。倭習にも個性があり、「憲法十七条」の倭習を見ていくと、これは聖徳太子の真作ではなく、β群の書き手である山田史御方が作ったものと考えられる。小説ではないので、もちろん何らかの史料はあったと思うが、その資料を見て山田史御方が文章を綴ったのではないだろうか。


倭習を見ていくことにより、「乙巳の変」が史実かどうかも分かってくる。「乙巳の変」は正確漢文で書かれたα群の「巻二十四」に収められているが、倭州が目立つ。その理由は、天智天皇と中臣鎌足を律令国家の英雄にしようと意図が働いて、そのためには大化の改新が必要となってくる。そこで、「乙巳の変」が起こり、それを正当化する必要があったと考えられる。


『日本書紀』を漢文の原文で読み、例外を見つめていくことにより、記事の虚実が見えてくる。


 

 


【講師プロフィール】
森 博達(もり・ひろみち)/京都産業大学 教授
1949年、兵庫県生まれ。大阪外国語大学外国語学部中国語学科卒業。名古屋大学大学院博士課程(中国文学専攻)中退。
愛知大学専任講師、同志社大学助教授、大阪外国語大学助教授を経て、京都産業大学教授。専攻は東アジア語文交渉史。
著書に『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店、第20回金田一京助博士記念賞)、『日本書紀の謎を解く』(中公新書、第54回毎日出版文化賞)など。国語学の視点から新たな知見を入れた続編『日本書紀 成立の真実 書き換えの主導者は誰か』(中央公論社、2011年11月)を上梓し問題提起を試みている。