記紀・万葉講座

目からウロコの『記紀』と日本史の授業

古代にまつわる講演会 大淀町

2018年2月25日(日曜日)13時00分~14時30分
会場・大淀町文化会館あらかしホール
講師・歴史研究家 多摩大学客員教授 歴史作家 河合敦氏
演題・「目からウロコの『記紀』と日本史の授業」


 

講演の内容

 『古事記』は天皇の正当性を啓蒙することを目的とし、『日本書紀』は天皇家が正当な王朝として存在を当時の大国、中国などに対して知らしめることを目的として、第40代天武天皇の時代に編纂がはじまった。天皇家は日本初の統一国家である大和政権のリーダーの家柄であり、3世紀の半ば、奈良県桜井市にある纏向遺跡を拠点とした豪族の連合政権として発足した。この時期以降、巨大な前方後円墳が全国に広まり、それは大和政権の勢力範囲と符合する。この巨大な古墳の代表として、古墳時代中期の大仙古墳がある。以前は仁徳天皇陵と呼ばれていたが、第16代仁徳天皇の陵墓ではない可能性が高まり、現在は大仙古墳と呼ばれている。

 国内で実在が確認できる天皇は、倭王・武に比定される第21代雄略天皇で、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘に雄略天皇の和風諡号であるワカタケル大王の名を確認することができる。その後の第25代武烈天皇は、近親の男子がおらず、皇統の断絶が危惧された。そこで第15代応神天皇の五世の孫にあたる越前出身の人物が、第26代継体天皇として即位することになったが、血縁が不明瞭な点や大和入りに要した時間などから、これを新朝廷の樹立と考える説もある。継体天皇の陵墓として治定されている太田茶臼山古墳は5世紀半ばのものであるのに対し、継体天皇の没年は6世紀前半と時代にズレが生じている。現在では、高槻市にある今城塚古墳が有力であり、発掘調査が可能な天皇陵の特殊な例として極めて重要な古墳である。

 天皇家の先祖である天照大御神を祀る伊勢神宮が建てられた経緯は『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時代とされている。宮中で祀られていた、三種の神器のひとつであり、天照大御神の分身として祀られている「八咫鏡」を移動するよう娘に命じ、笠縫邑に移された。また、第11代垂仁天皇も娘の倭姫命に再び、別の場所に移すよう命じ、紆余曲折の末、伊勢の地に安置され、それが伊勢神宮のはじまりとなった。そして、倭姫命は、伊勢神宮の初代斎宮となり、天照大御神に仕えた。この斎宮を制度化したのが、天武天皇である。また、20年ごとに、社殿を立て直す式年遷宮も制度化したのも天武天皇である。法隆寺などの寺院などでわかる通り、日本の建築技術は極めて高く、老朽化が原因で立て直す必要はないにもかかわらず、あえて白木の掘っ立て柱の社殿でつくって式年遷宮を行う理由には諸説ある。神は穢れを嫌うので清潔さを保つため、または建築技術を伝承するためともいわれている。

 また、出雲大社は、記紀によると、天照大御神を中心とした神々に、国を譲るよう迫られた大国主命が、建てるように要求した大きな社がはじまりとされる。今も、木造建築物の神社として我が国最大の約24mの高さを誇るが、古代には高さが約48mもあったという。以前は信憑性を疑われていたが、近年、その根拠となる柱が見つかり、神話に記された説話が全くの創作ではない証拠となり話題となった。

 天皇家を中心とした大和政権は、6世紀半ば頃に、蘇我氏が強大化する。仏教の崇仏論争の末、有力豪族の物部氏を滅亡させた蘇我馬子は、第32代崇峻天皇を暗殺したのち、自身の姪である第33代推古天皇を即位させた。その際に、推古天皇を補佐したのが、聖徳太子である。しかし、聖徳太子の事績は『日本書紀』によって聖人化された架空のものであり、それをさせたのは記紀編纂の時期に権力をもっていた藤原不比等だとする説がある。藤原不比等の孫、皇太子の首(おびと)皇子(後の第45代聖武天皇)は、皇太子時代が長く、なかなか天皇に即位することが出来なかった。そこで藤原不比等は、皇太子の存在を「聖なるもの」とするため、聖徳太子の事績を作り上げたとする説である。私は、推古朝の実力者は、やはり蘇我馬子であり、聖徳太子は有力な皇位後継者で優秀な人物であることは間違いないが、政治的に大きな力があったかという点は疑問に残ると考えている。

 645年、蘇我氏の本家が滅亡した事件を近年の教科書では乙巳の変と呼び、それ以降の数年間の政治改革を大化の改新と呼んでいる。教科書では、その中心人物は中大兄皇子と中臣鎌足となっているが、これも近年では、第36代孝徳天皇が中心であったと主張する学者もいる。乙巳の変の後、皇位についたのが、中大兄皇子ではなく、叔父である孝徳天皇であったことが理由のひとつとして挙げられている。その後、中大兄皇子は第38代天智天皇として即位し、弟の大海人皇子が皇太子となる。当時は同母弟がいる場合は弟が皇位を継ぐのが暗黙のルールであったが、天智天皇は子の大友皇子の即位を希望したため、大海人皇子は危険を感じ吉野に逃れた。672年、天智天皇が亡くなると大海人皇子は挙兵して東で兵を集めて、飛鳥の豪族と協力して、大友皇子を打ち破った。これが、古代最大の内乱といわれる壬申の乱である。それ故、天武天皇は、武力によって皇位を簒奪して即位した天皇ともいえ、記紀の編纂を命じた理由は、自分の都合の悪い史実を改ざんする意図があったのではないだろうか。

 天武天皇の後を継いだのは后である第41代持統天皇だ。持統天皇は子、草壁皇子に皇位を継がせようとしたが、若くに亡くなったため、孫を即位させるため成長を待った。その際に、政治の補佐をしたのが藤原不比等である。孫は後に第42代文武天皇として即位し、707年に崩御された。そして、その後を継いだ、母、第43代元明天皇の時代、710年に平城京に遷都し、それ以降、長岡京に遷都するまでの期間、奈良時代と呼ばれる。

 藤原不比等の死後、実権を握った皇族の長屋王を失脚させたのが、不比等の子、いわゆる藤原四兄弟である。彼らは妹、光明子を第45代聖武天皇の皇后にさせたが、737年に四兄弟が疫病で相次いで亡くなり、また、地震や干ばつなど天災が頻繁におこるなど、聖武天皇が即位以降、社会不安が続いた。社会不安は天皇の不徳によるものと古代では考えられており、自信を失った聖武天皇は、国家に平安をもたらすとされる仏教の力に救いを求めた。そして全国に国分寺や国分尼寺を建立し、東大寺に大仏を建立するなど、鎮護国家の政策を行う。その後、生涯独身であった第48代称徳天皇の後に皇位を継いだのは、天智天皇の流れを汲む第49代光仁天皇である。

 光仁天皇の子、第50代桓武天皇が794年に平安京に遷都するのだが、そのわずか10年前に長岡京に遷都している。わずが、10年で都を変えた理由は教科書には「桓武天皇は怨霊に苦しみ(略)平安京に遷都した。」と書かれている。古代では怨霊の存在が信じられており、記紀はそうした時代に編纂された歴史書である。

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【講師プロフィール】
1965年東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒。早稲田大学大学院修士課程修了(日本史専攻)。第17回郷土史研究賞優秀賞。第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。高等学校教諭を20年以上務める。テレビをはじめメディアに多数出演。歴史の意外なエピソードや真実を紹介する。その内容は、歴史マニアもうならせるほどの本格的なもの。著書多数。