記紀・万葉講座

記紀・万葉にみる玉文化

古代にまつわる講演会 明日香村

2017年12月17日(日曜日)13時30分~15時00分
会場・奈良県立万葉文化館 企画展示室
講師・奈良芸術短期大学非常勤講師 玉城一枝氏
演題・「記紀・万葉にみる玉文化」


 

講演の内容

 玉は縄文時代から人々に愛され、やがて権力者の必須アイテムとして古墳などで発見される普遍的な遺物となる。記紀・万葉集にみる古代の玉文化の具体相を紹介し、特に装身具としての玉類の使用に注目してお話ししたい。人物埴輪などの考古資料とも照らし合わせて玉類の使用には性差があることを確認したうえで、埋葬当時のまま、被葬者が玉の装身具を身に着けていた実例として斑鳩町・藤ノ木古墳の2体の人骨をとりあげ、被葬者論にも大きな影響を及ぼす性判定の問題点にも言及する。

 記紀・万葉集にみる玉の記述には玉の神秘的な力を表すものや、玉を恋しい相手の比喩とする例なども散見する。玉の霊力を象徴するものとして、アマテラスオオミカミが弟スサノオノミコトの来訪に警戒して男装するくだりでは左右の御手に各々八尺瓊の五百箇の御統の玉を纏いた(記紀)という記述などがある。 「一日には千重波しきに思へどもなぞその玉の手に巻きかたき」(万葉集 409)という大伴駿河麻呂の歌は、玉を恋しい相手にたとえたものであり、「こもりくの泊瀬娘子が手に纏ける玉は乱れてありと言はずやも」(万葉集424)の「玉が乱れる」という表現は死の暗示であろう。

 それとは別に、生活の中での具体的な玉の使用にかかわる例をみてみると「足玉も手玉もゆらに織る機を君が御衣に縫いもあへむかも」(万葉集 2065)や、ニニギノミコトが勝長狭に「手玉もゆらに機織る少女は誰の女か」と尋ねた(紀)という記述は、女性が手と足に巻いた玉の装身具を揺らしながら機を織る実景を描写したものである。ちなみに機織りは世界的にも女性の仕事である。

 また、仁徳天皇の命を受けて、使いの者が雌鳥皇女を殺害したとき、その手足に纏いた玉(記では手玉〔玉釧と表記〕のみ)を奪って自分の妻に与えたことが発覚し、罰を受けた(記紀)という逸話や、節度をわきまえぬ行動をとった者たちを戒めるため、一族をことごとく捕らえたが、その中に玉を手足に纏いた身なりの立派な二人の女がいて素性を問い質したところ、高貴な身分とわかり、この二人だけは許して還し送った(『播磨国風土記』)とあることからも、手玉・足玉が高貴な女性を象徴する装身具であったと考えられる。

 ここで、玉の材質について少し触れておくと、万葉集では、「白玉」(真珠)「あわび玉」「竹玉」なども挙げられているが、これらは酸性土壌の日本の風土ではほぼ消滅し、発掘調査で検出されるのはガラス玉の他、碧玉、瑪瑙、水晶などの石製品が中心となる。なかでも近年、日本の国石に定められたヒスイは特に好まれ、縄文時代から大珠や勾玉に加工されるが、そのほとんどが新潟県糸魚川産である。「沼名河の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉かもあたらしき君が老ゆらく惜しも(万葉集3247)」は、越の国のヌナカワ姫伝説やヒスイとのかかわりを示す歌で、姫川や青海川の激流で丸みを帯びたヒスイの原石を拾って勾玉などに加工したことが、発掘調査でも裏付けられている。ヒスイ製勾玉は国内の支配者が求めただけでなく、倭の特産品として朝鮮半島にもたらされ、皇南大塚や金冠塚など新羅の王陵から出土する金製冠の装飾パーツとして圧倒的存在感をみせている。

 さて、ふたたび装身具としての玉に話を戻すと、記紀・万葉集の記述にみる装身具の性差は、人物埴輪などの考古資料とも矛盾しない。高位の人物埴輪において男女の装身具を比較してみると、首飾りとしての玉の装飾は共通するが、相対的に女性の方が玉類を多用する傾向があり、丸玉を連ねた中に勾玉を多く配置して華やかさを演出している。そして人物埴輪で、リング状の釧は男女ともにみられるが、手玉・足玉は例外なく女性だけの装身具である。

 では実際の古墳における埋葬状況で比較検討に耐える例はどうかというと、ほとんどの古墳が盗掘を受けており、遺物が持ち去られる際の攪乱などで埋葬当初の状態を復元することが困難であった。ところが1985年から調査が開始された斑鳩町・藤ノ木古墳では石室内部がほとんど荒らされることなく、豪華な馬具の出土などで世間の注目を集めることになる。そして未盗掘の家形石棺からは2体の人骨が確認され、そのうちの南側被葬者だけが手玉・足玉を着装していた状況が認められた。

 人骨が確認されたことで、2体の人物像に関心が集まったことは言うまでもない。比較的遺りのよかった北側被葬者は早い段階で20歳前後の男性とされており、残る一体である足骨(踵からつま先)だけが遺る南側被葬者の性判定について私の考えを述べたいと思う。

 ここでは2点の主要な論拠に対して、その要点を簡潔に紹介したい。

 (1) 南側被葬者の身長について。
 私は、人骨や耳環、歯牙の細片などの出土位置から、南側被葬者の身長は約159cm程度と推算できると考えている。

 ただし、第一中足骨の計測値を用いて、ポルトガル母集団の標本 (男性90体、女性20体)から得られた身長推算式を基に算出している説もあり、この場合166.6±11.1cm(155.5~177.7cm)となる。

 どちらにせよ、算出された身長だけでは男女どちらの可能性も考えられる。ただし、そもそも現代外国人の標本から得られた身長推算式を、生活様式や体格の異なる日本の古墳時代人に適用すること自体、問題ではないかと考える。これについては、現在広く使われている、日本人の標本をもとにした身長推算式を考案した藤井明氏が「ある民族又はある種族より得られた身長推算式を他の民族や種族に応用することは非常に問題がある。なぜならば民族や種族によって身体各部の身長に対する割合が違うからである」と述べている。

 (2) 南側被葬者の足根骨(距骨と踵骨)について。
私は医学方面の知識もないので、整形外科医師など4名の医学専門家にご教示を得たところ、一様に「足骨の形成には遺伝的要素のほかに足の使い方や生活様式・習慣などが大きく影響する。南側被葬者は足をよく使っていたと思われるが、踵骨の形状は個人差も大きく簡単に性別を決められない」ということであった。さまざまな条件によって大きく変異するという足根骨の形状は、後天的な形成要因も影響する可能性があり、やはり特定個人の性判定の指標とすることは不適切だと考える。

 以上のように、南側被葬者の生物学的性については、現時点で判別できないと考える。可能であればDNA鑑定など真に科学的な方法に拠って決着すべきであり、藤ノ木古墳の被葬者は「男性(北側被葬者)と性別不明の成人(南側被葬者)」として扱うことが現段階でとるべき学問的態度であると思う。

 このように南側被葬者が性別の決め手を欠く以上、記紀・万葉集の記述や考古資料の整合性を鑑みれば、藤ノ木古墳は男女合葬墓の可能性を考えてよいと思う。

明日香村


明日香村2

【講師プロフィール】
【講師プロフィール】 香川県高松市出身。同志社大学文学部(考古学専攻)卒業。香川県教育委員会文化行政課、奈良県立橿原考古学研究所を経て、現在、奈良芸術短期大学、滋賀県立大学非常勤講師。
主に古代の文物を研究テーマとしているが、玉文化関係の論文として「弥生時代から古墳時代にみる翡翠文化」、「手玉考」、「足玉考」、「古代真珠考」、「古墳時代の頸飾り」、「藤ノ木古墳の被葬者と装身具の性差をめぐって」などがある。

【ワークショップ】

日時:2017年12月17日(日曜日)11時00分~12時30分
会場:奈良県立万葉文化館資料調査室
講師:奈良県立万葉文化館 研究員 吉原 啓氏
昭和58年、兵庫県生まれ。奈良大学大学院文学研究科文化財史料学専攻博士後期課程満期退学。大田原市なす風土記の丘湯津上資料館・大田原市歴史民俗資料館学芸員を経て、現職。専門は日本古代史。共著に『那須をとらえる4』(隋想舎)、『とちぎを掘る』(隋想舎)、主な論文に「平安時代前期の青苗簿政策」(日本史研究640号)、「売券の連署人」(ヒストリア238号)などがある。
演題:「勾玉づくり」
概要:勾玉は翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、水晶、滑石などで作られた古代日本の装身具で、祭祀にも使われました。本ワークショップでは、勾玉に関するレクチャーを聞きながら、滑石を削りあげ、思い思いの勾玉を作りました。