記紀・万葉講座

天平人の憧れた唐の文化

古代にまつわる講演会 天理市

2018年2月3日(土)13時30分~15時00分
会場・天理市文化センター
講師・阪南大学教授 来村多加史氏
演題・「天平人の憧れた唐の文化」


 

講演の内容

 遣唐使とともに大陸に渡った留学生や留学僧。彼らが知識とともに持ち帰った文物に憧れを抱いた奈良時代の貴族。本日の講演は、大陸文化の流入が、我が国にどのような影響を与えたのかを時代を追いながらお話したいと思う。

 飛鳥時代の初め、小野妹子が遣隋使として大陸にわたり、中国との直接交流が始まる。大変危険な航海を経て大陸へ渡り、10数年におよぶ滞在生活を送るのである。そして、ようやく帰国した後は、留学の成果をいかんなく発揮し吉備真備や僧玄昉が代表するよう、大いに活躍することとなる。しかし、755年唐で起こった安史の乱などの影響で、唐の国力が衰えはじめ、計10数回に渡る派遣は、894年に菅原道真が遣唐使の建議により廃止された。

 中国の歴史書に、はじめて日本の記事が登場したのは、前漢時代の歴史を綴った『漢書』の「地理志・燕地」である。わずか19文字の漢文で、要約すると、楽浪郡の海の彼方に倭人がいて、100国あまりの小国に分かれていたこと、それぞれが年ごとに、あるいは季節ごとに貢物をもって、郡城までやってきていたことがわかる。その際、持ち帰った銅鏡をはじめとする物品が、北部九州の有力者の墓に副葬されている例が見られる。しかし、車蓋の布を張るための部品を装飾品として扱われていたケースもあり、本来の使用用途とは異なる方法で使われていたようである。

つづく後漢時代の歴史を綴った『後漢書』の「東夷列伝」には、後漢王朝を樹立した光武帝劉秀の最晩年の時代、奴国が朝貢をして印綬を賜ったとある。光武帝から賜った印綬はおそらく金印紫綬であろう。鈕に蛇が型取られたこの金印は、天明年間に福岡県の志賀島で発見され、この時代も日本と中国は引き続き交流が行われていたことがわかる。

 弥生時代から古墳時代への移行期における倭国事情を詳細に記したのが、いわゆる「魏志倭人伝」である。その情報源は魏王朝の実録や邪馬台国を訪れた帯方郡の使者で、内容の信憑性は高い。女王卑弥呼が大夫の難升米を魏に派遣した際、魏の斉王曹芳から「親魏倭王」の金印紫綬と錦の反物や敷物、そして銅鏡など、生口10人と班布5反の貢物に対して、あまりにも豪華な返礼品が下賜された。銅鏡の使い方や副葬品としての扱い方が、中国とは異なっており、この時代も日本は大陸の文化を完全には理解していなかったと思われる。

 古墳時代には原始的な官僚制度である氏姓制度が芽生え、それに伴って、身分を示す 装身具が受容される。中国の身分のある男性の帯と冠はその典型例である。孫呉時代や南北朝時代の銀製の帯と非常によく似たものが奈良県広陵町の大塚陵墓参考地(新山古墳)から出土している。また、冠の身分の違いを示す額の装飾品なども橿原市の新沢千塚126号墓から出土しており、中国の官僚社会が日本に影響を及ぼし、日本がこの頃に中国の文化水準に近づいたと思われる。

 古墳時代中期になると、伽耶地方から供給される豊富な鉄原料から大量の鉄製武器や鉄製農耕具が生産され、副葬品の内容が呪術的な組み合わせから軍事的な組み合わせに変わった。騎馬の風習が伝来したのちは、馬具や甲冑なども発達し、大陸的なものに様変わりした。それは日本の武人埴輪と中国の北朝武人俑の類似点などからも確認できる。

 5世紀から本格的に生産が始まった須恵器は、日用品のほか、副葬用として納めた明器としても用いられた。その造形は中国六朝文化の影響も見られる。例えば、主に明器として焼かれた「子持壺(こもちつぼ)」と呼ばれる須恵器は、六朝青磁によく見られる「魂瓶(こんぺい)」に類似する。魂瓶は、死者のために何らかの呪術的な効果を期待して副葬された明器で、こうした壺が古墳に納められているということは、中国の文化を十分に理解していたという証拠となる。

 透明なカットグラスはササン朝ペルシャの技術革新による産物である。ペルシャの物品や技術は魏晋南北朝時代の中国に伝わり、伝播の余波は日本にまで及んだ。伝安閑天皇陵出土の切子碗、新沢千塚126号墓出土の切子碗、正倉院宝物の切子碗などが日本にも伝わっており、それらはイラン地方からシルクロードか海上路を通り、中国を経て日本にもたらされたものであろう。

 まさに、『日本書紀』の記述にあわせ、神武天皇陵が「創世」されたのである。幕末から明治にかけての再整備は、尊王攘夷や王政復古というこの時代の新しい価値観や思想に基づくものであることはいうまでもない。

 四川省の蜀の国は、古来、鉱業や織物業が盛んな地域であった。連珠円紋を基調とする蜀江錦は、西方にも輸出され、逆に西方から輸入された毛織物のデザインを錦に織り込みんだ。法隆寺に伝わる「四騎獅子狩紋錦」がまさに後者にあたり、ササン朝ペルシャの王侯が馬に跨りパルティアン・ショットで獅子に矢を射かける図像が連珠円紋の中に織り込まれている。先のカットグラスやこの錦のように西方の物品そのものや、その文化を取り入れた中国の物品が、日本まで伝わっているのである。また、蜀江錦は「天蓋」としても利用されていた。天蓋とは貴人が外出する際に、供人が主人の頭上にかざすパラソルのことで、東晋時代や南北朝時代末期の絵画に天蓋をかざす場面が描かれている。それらを見ると、天蓋は4本の骨で張る方蓋であったことがわかる。この習慣は飛鳥時代の日本に伝わり、法隆寺金堂の天蓋にはその影響が伺え、高松塚古墳の壁画に描かれ、正倉院南倉には宝物として実物が確認することができる。そして、天蓋を補強するためにつけられた四隅の縁飾りや蓋頂には蜀江錦が使用されているのである。

 後漢時代には、墓の明器として陶製模型が数多く生産され、中には深緑色の釉薬をかけた緑釉陶器も見られる。唐代になると、長安や洛陽で3色から5色の釉薬で飾る、いわゆる「唐三彩」が大量に焼かれるようになる。唐三彩は日本にも影響を与え、奈良時代になると、「奈良三彩」と呼ばれる、唐三彩に似た陶器が国内で生産されるようになった。それらは中国伝来の技術で焼かれたものではなく、伝来した唐三彩を真似て、日本の陶工が焼いたものである。日本でも骨壺などによく用いられるのは、唐三彩の明器としての用途をそのまま踏襲している可能性もあり。日本人が、唐の文化を日常生活だけでなく、死生観まで影響を受け、精神文化まで理解していたことを物語っている。

 『続日本紀』の天平8年8月の記事には、遣唐副使の中臣名代が帰国した際、唐人3人とペルシャ人1人が同船して朝廷に参内したという記録がある。その4人を含めた唐やインドの僧職や楽人達が来日し、定住した結果、外来の文化が直接的に伝わることとなる。

 遣隋使や遣唐使とともに大陸に渡った留学生や留学僧たちが帰国した際にもたらした知識によって日本の文化水準は唐に近づき、さらに唐人やペルシャ人などが、直接的に伝えることで、文化の水準は唐に並ぶほど、高度なものへ成長することとなったのである。

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【講師プロフィール】
1958年兵庫県生まれ。関西大学大学院を博士課程修了。大学院在籍中、政府交換留学生として北京大学考古系に留学し、皇帝陵と都城の単独調査を行う。2009年より現職。専門は日中考古学・中国軍事史。文学博士。NHKスペシャル「始皇帝」「四大文明」「大化改新」等を監修。NHK BSプレミアム「ザ・プロファイラー」「BS歴史館」等、歴史番組多数に出演。主な著書に『奈良時代一周 まほろばを歩く』(NHK出版)、『高松塚とキトラ 古墳壁画の謎』(講談社)、『キトラ古墳は語る』(NHK出版生活人新書)、『風水と天皇陵』(講談社現代新書)などがある。

【ワークショップ】

日時;2018年2月3日(土)11時00分~12時30分
会場:天理市文化センター文化ホール
講師:香麗志安 和漢香文化研究所主宰 千葉恭子氏
学習院大学文学部史学科卒。中国香文化史家、香司、JAMHA認定ハーバルセラピスト他。他に日本香文化学会代表(『香文化録』発行)、和漢文化LABO主宰。
専門の東洋史の観点から香文化史を研究、国内、台湾、中国における国際学会で発表し、学術論文を刊行。香文化史講座、和漢聞香、手作り香ワークショップを開催している。
 香麗志安ブランド・マインドフルネス香からは、オリジナルの香製品を販売している。

演題:「お香づくり-正倉院と鑑真和上の香りをまとう-」
概要:中国古代も含めた香文化史と正倉院の香道具を学び、実際に香料を配合して、奈良時代の香りをイメージした香袋と文香を手づくりしました。それぞれに個性を持つ香料が配合されるに従って香りを変えていくさまに感嘆の声があがり、会場内は幻想的な香りに包まれました。