記紀・万葉講座

日本書紀と古墳時代の考古学

古代にまつわる講演会 宇陀市

2018年1月27日(土)13時30分~15時00分
会場・宇陀商工会館 会議室
講師・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館学芸課長 坂靖氏
演題・「日本書紀と古墳時代の考古学」


 

講演の内容

 『日本書紀』は8世紀に編纂された歴史書である。 古墳時代はそれから遡って200年~550年ほど前の3世紀半ば頃~6世紀末葉、前方後円墳が各地に築かれた時代である。当然のことではあるが『日本書紀』は、正確にこの時代のことを記述してはいない。古墳時代には、「日本」の国号は存在せず、「倭国」と称していた。また、「天皇」号も存在しない。倭国王として、対外交渉に臨んでいた。歴史的事実とは大きな乖離がある。

 考古学の研究成果により、時代の推移やものの変化が正確に捉えられるようになった。「歴史」や「日本史」などの科目においても、考古学の成果に基づき、弥生時代につづく時代が、古墳時代であり、それがどのような時代であったのかということを授業や講義で扱う。しかし、考古学では詳細な年紀や、具体的な人物までは踏み込むことが極めて難しい。

 もちろん、『日本書紀』は正史として纏められた極めて優れた歴史書である。文献資料のなかでは『日本書紀』が最も重要であり、これを無視して歴史を語ることは許されない。真実を希求し、正確な歴史叙述をするためには、まだまだ道は遠い。

 ここでは、①「仁徳天皇」は実在したか?②黄泉国と「ヨモツヘグイ」③「神武天皇陵はいつ作られたか」という3つの話題を提供し、『日本書紀』と古墳時代の考古学を繋げてみたい。

1 「仁徳天皇」は実在したか?

 堺市に、日本列島最大、いや世界最大とも評される大山古墳=仁徳天皇陵があるのに、なぜそんなことを言うのだろうとおっしゃる方も多いだろう。しかし、それとて真実は明らかではない。平安時代にまとめられた『延喜式』の時点で、この古墳が『日本書紀』のいう大鷦鷯天皇(のちに漢風の諡号がおくられ仁徳天皇と呼ばれることになった)の御陵と認識されていたことはほぼ確実ではある。しかしながら、百舌鳥古墳群における古墳の築造順序をみると『日本書紀』の記述とは明らかに矛盾している。

 また、著名な「民の竈」の逸話は、5世紀にそもそも近畿地方において竈は普及しておらず、この時代の景観を反映した記述でないことは明らかである。

5世紀に巨大前方後円墳が存在し、日本列島に覇権を及ぼし、中国皇帝と交渉した倭国の王や大王が存在したことは、歴史的事実である。そしてそのなかの一人が、この古墳を築いたのであり、その意味では当然、「仁徳天皇」の存在そのものすべてが、否定されるわけではない。

 私は、『宋書倭国伝』の倭王讃と仁徳天皇の人物像を重ね、その墳墓がやはり大山古墳であると考えている。しかし、この倭の五王の系譜は、必ずしも『日本書紀』の系譜関係とは一致しない。倭の五王のうち、最後の武が『日本書紀』の雄略であることは、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘からほぼ誤りがないところだが、その前代となると、不明な点が多く確証は得られない。

2 黄泉国と「ヨモツヘグイ」

 『日本書紀』神代巻では、イザナギ(伊弉諾)イザナミ(伊弉諾)による国土誕生譚が第四段、国を治める神々の誕生が第五段に記載される。第五段一書六においてイザナミが火の神のカグヅチ(軻遇突智)を産んだところで亡くなる。イザナミは黄泉の国に行くが、それをイザナギが追いかける。黄泉国の情景が描かれ、そこに当時の、死後の思想や世界観が表現されている。

 その時、イザナミはすでにヨモツヘグイ(湌泉之竈)をおこなったので、もうイザナギのもとへは戻れないという。ヨモツヘグイとは、黄泉の国でおこなう生の世界と死の世界を分かつ食事である。

 黄泉の国は異説もあるが、横穴式石室の世界に対比される。九州地方、近畿地方、あるいは中国など、その地域について諸説が提起されているものの、その世界観は整合的である。横穴式石室は在来の埋葬方法ではなく、外来思想とともに、中国・朝鮮半島から伝播したものである。近畿地方では、6世紀に朝鮮半島南部地域の影響のもと普及する。ヨモツヘグイは、竈を使用した食事という観点でみれば、5世紀以降の朝鮮半島南部の影響を受けた外来の生活文化である。

つまり、『日本書紀』における黄泉国の記述は、6世紀以降の外来文化が色濃く反映しているのである。神話に必ずしも「古い」場面と「古い」思想が記述されているわけではないといえる。

3 神武天皇陵はいつ作られたか

 『日本書紀』では、神武天皇は「辛酉年春正月庚辰朔」に橿原宮で即位し、127歳で同宮に崩じ、畝傍山東北陵に葬られたという。また、綏靖天皇は畝傍山の北に葬られたという。いうまでもなく、神武天皇は、古代国家の「始祖王」である。

 畝傍山の東北、藤原宮からちょうど真西の位置に、5~6世紀代に築造された四条古墳群がある。四条1~12号墳などの墳丘は、新益京造営とともに削平され、残された周濠から埴輪や木製品が出土している。現在宮内庁が綏靖天皇陵として管理するのは「塚山」であるが、1878年(明治11)に治定されたものである。直径30mほどの墳丘上の高まりがあり、四条古墳群のうち、墳丘が残された古墳(四条・塚山古墳)である可能性が高い。この「塚山」は、実は1697年(元禄10)の江戸幕府による山陵調査で神武天皇陵にあてている。一方、現在の神武天皇陵は、1863年(文久3)に「ミサンザイ」と称された小丘を繋いで造営されたものであり、鶏形埴輪などが出土していて、これも古墳を改変したものである可能性が高い。これら四条古墳群の被葬者は、5~6世紀の畝傍山周辺に盤踞した在地の小首長であり、神武天皇とは無関係といわなければならない。大王の傘下にあったとみるより、のちに大伴氏と呼ばれるようになった在地集団であったであろう。

 いずれにせよ、神武天皇陵は、藤原宮と新益京の造営にあわせ、古代律令国家によって、宮の真西の位置にある古墳群の一部を利用して造営されたものであったと考えられる。

 まさに、『日本書紀』の記述にあわせ、神武天皇陵が「創世」されたのである。幕末から明治にかけての再整備は、尊王攘夷や王政復古というこの時代の新しい価値観や思想に基づくものであることはいうまでもない。

結びにかえて

 この3つの話題をふまえ、どのように感じていただけただろうか。

 『日本書紀』の記述の背景には、古代律令国家の価値観・思想が色濃く反映し、それは6世紀代以降に定着したものである。5世紀以前や神話の内容については、その記述は参考にはなるものの、その程度にとどまるだろう。

 私は、こうした歴史的背景を知ることが、3~6世紀の正確な歴史を知る第一歩になるものと考えている。

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【講師プロフィール】
1961年京都市生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士課程前期修了。博士(文化史学)。橿原考古学研究所研究員を経て現職。主要著書・共著『古墳時代の遺跡学』(雄三閣)、『葛城の王都ー南郷遺跡群ー』(新泉社)など。

【ワークショップ】

日時;2018年1月27日(土)11時00分~12時30分
会場:宇陀商工会館会議室
講師:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 学芸課長 坂 靖氏
演題:「さわって体感 ドキドキ土器」
概要:遺跡発掘に関しての基礎的な解説を行うと共に、参加者の方々には、一つずつ土器が配られ実際にその感触を確かめていたただきました。一見しただけでは、他の土器との違いがわからないものでも、その細部に当時を想像させるヒントが隠されており、解説を聞きながら古代の暮らしに想いを馳せました。