記紀・万葉講座

令和2年度聖徳太子シンポジウム

2021年2月28日(土)13時00分~16時30分
会場:いかるがホール

プログラム
第1部 基調講演:「聖徳太子のこころと信仰」
古谷正覚師(法隆寺管長)
パネルディスカッション:「聖徳太子信仰と伝承」
パネリスト:武田佐知子氏(大阪大学名誉教授)
森博達氏(京都産業大学名誉教授)
瀨谷貴之氏(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)
コーディネーター:毛利和雄(元NHK解説委員) 

聖徳太子シンポジウム-聖徳太子信仰と伝承-

2021年は、聖徳太子没後1400年を迎える節目の年。 我が国黎明の時、政治、外交、文化、芸術、宗教、思想、道徳など幅広い分野の礎を築き、後世の人々にも大きな影響を与えた聖徳太子。奈良県では太子ゆかりの市町村とともに「聖徳太子プロジェクト」を展開。2月28日には、斑鳩町のいかるがホールにて「聖徳太子信仰と伝承」をテーマとした『聖徳太子シンポジウム』を開催した。 シンポジウムでは、法隆寺の古谷正覚管長による基調講演、聖徳太子について各々の見識を持つ研究者が集ったパネルディスカッションが行われ、聖徳太子がめざした理想と仏教のつながり、聖徳太子信仰が広がった経緯、後世の人々がどのように聖徳太子と向き合ってきたかなど、様々な考察が重ねられた。 さらに、バーチャルリアリティーコンテンツ『国宝聖徳太子絵伝』の上映や、次世代電子楽器パフォーマー薮井佑介氏によるスペシャルコンサート『聖徳太子』も行われ、来場者は時空を超えて伝わる聖徳太子の魅力に触れた。

基調講演「聖徳太子のこころと信仰」古谷正覚(法隆寺管長)

聖徳太子1400年御遠忌

聖徳太子のご命日法要は一般的に聖霊会と呼ばれており、特に10年目、50年目、100年目などの大きな節目にあたるご命日法要を、御遠忌、御聖忌、御忌等と呼んでいます。 法隆寺では4月3日から3日間、聖徳太子1400年御遠忌という法要を開催します。

聖徳太子の時代と仏教の興隆

聖徳太子が生きた時代は、氏族同士の仲が悪く、外交や政治方針、皇位継承を巡り争いが絶えませんでした。悲惨な出来事が相次ぐ中、聖徳太子は平和な世の中をつくりたいと願い、仏教を広めようとします。 593年、推古天皇が即位し聖徳太子は摂政に。翌594年に『三宝興隆の詔』が出されます。三宝というのは仏・法・僧の3つの宝。仏の宝、これはお釈迦様のこと。法とは、お釈迦様が示された教え。僧とは、その教えの実現を目的として修行に努める人たちの集団。この仏・法・僧の3つが揃ってこそ本当の仏教であると。 仏教の興隆を具体的に示したものがお寺であり、聖徳太子も四天王寺、法隆寺、中宮寺などを次々に建立。仏教を国の教えとして、天皇を中心とした国家を建設しようとされたのだと思われます。

『十七条憲法』と遺言

604年、聖徳太子は『十七条憲法』を制定。「和をもって貴しと為し さからうことなきを旨とせよ」という第一条は、憲法の根幹をなす重要な条文です。「お互いの心が和らいで調和し仲良く敬い合う。和合が最も貴重である」と説かれています。また、第二条では「篤く三宝を敬え」。仏教に帰依することで己の曲がった心根を直すことができる。また、悪い人間も立派な人格に導き直すことができると。 聖徳太子は誰もが平和に暮らせる理想の国を実現するために「十七条憲法」を作り、儒教、仏教の教えに基づいた役人の心得を示したのです。 また、晩年には勝鬘経、維摩経、法華経の研鑽に励み、天皇や諸公の前で講讃。『三経義疏』という注釈書を制作。仏の真実の教えを後世に伝えるために「世間虚仮」「唯物是真」「諸悪莫作」「諸善奉行」等の言葉を親族に遺します。

聖徳太子信仰の広がり

聖徳太子は622年2月22日に亡くなられました。  平安時代には『聖徳太子伝暦』が書かれ、その逸話を基にした『聖徳太子絵伝』が描かれました。聖徳太子が12歳の時、百済の高僧・日羅から救世観音菩薩の化身として礼拝された逸話などが伝説となり、聖徳太子信仰が盛り上がっていったと思われます。 鎌倉時代になると聖徳太子信仰はますます広がります。鎌倉仏教の影響もあり、聖徳太子自身が人々を苦しみから救ってくださる観音の化身として信仰されていきます。室町時代以降になると、技術、芸能の祖として崇められ、太子信仰はお寺とは関係なく庶民にまで広がっていきます。

受け継がれる「聖徳太子のこころ」

聖徳太子の御心を支えていたのが仏教。人々が平和で安穏に暮らすことができる理想の社会の実現を願われ、自らも仏の教えを実践する生涯を送られています。 太子の考え方には「利他」、他人に対する思いやりの心があった。多くの人々を救おうとされた。そして、「救ってくれる」と信じられた。この心が聖徳太子信仰の根幹になり今も受け継がれているのではないでしょうか。 今年は聖徳太子1400年御遠忌。改めて聖徳太子のことを考え、思い出していただければと思います。

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パネルディスカッション「聖徳太子信仰と伝承」

【パネリスト】

武田佐知子(大阪大学名誉教授)
森博達(京都産業大学名誉教授)
瀨谷貴之(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)

【コーディネーター】

毛利和雄(瀬戸内港町文化研究所代表・元NHK解説委員)

◆毛利‥まずは、研究分野と聖徳太子との関係について。

◆武田‥古代の服装の研究をしていて、出版社から「1万円札の聖徳太子像について何か書いて欲しい」と言われた。昭和57年に旧1万円札の肖像について、今枝愛真という人が「あれは聖徳太子ではない」と発表した。明治維新の時に法隆寺から皇室に献上された聖徳太子の肖像画『唐本御影』の表装に入った墨跡が「川原寺」と読める。元の所蔵だとすれば川原寺は聖徳太子との関係が最も少ない。肖像画は聖徳太子ではないと。そこで、私は何故『唐本御影』が聖徳太子像ではないと疑われてきたのかを研究した。法隆寺の僧・顕真という人の書によると『唐本御影』の表装替えは中世に行われたことがわかった。だとすると、7、8世紀からそこまで一度も表装を変えていないとは考えにくい。また、『唐本御影』は中国の人が描いたという説もあるが、『唐本御影』の衣服等は天平時代半ばの日本の役人の風俗に倣ったものだという結論に至った。

◆森‥専門は中国語学。漢字の発音の変遷を学ぶため、『日本書紀』に出てくる歌謡などの万葉仮名を研究。『日本書紀』の区分論を進めてきた。『日本書紀』30巻は漢文で書かれているが、表記の性格によって、α群・β群・巻30に三分される。α群は漢字の中国音により正しい漢文によって綴られ、β群は漢字の日本音により和化漢文で書かれている。また編修の最終段階で、α群を中心に潤色や加筆が行われた。私はこの区分論を踏まえて『日本書紀』を読む。聖徳太子の記事は、まず巻21「崇峻紀」の蘇我物部戦争に出てくる。このとき14歳の太子は四天王像を作り、戦勝を祈願して勝利する。巻21は本来α群に属すが、この戦争の記事の漢文は間違いだらけ。β群の間違いとも性格が異なる。この記事は編修の最終段階で書き加えられたと考えられる。

◆瀨谷‥金沢文庫は、鎌倉時代に執権・北条氏が本を集める場所を作ったのが起源。 金沢北条氏が奈良・西大寺の叡尊という僧に帰依し、称名寺という末寺を作り、関西、奈良の窓口となった。 一昨年、金沢文庫で「聖徳太子信仰」という展覧会を行った。鎌倉時代は聖徳太子信仰が大変盛んになった時期だが、実は西大寺に本拠地を置いた真言律宗が全国に広めていったことがわかってきた。聖徳太子ゆかりの法隆寺と四天王寺。四天王寺の別当を叡尊の弟子の忍性が務め、法隆寺北室院も真言律宗の管轄に。 では、何故これほど真言律宗という宗派が太子信仰に傾倒したのか。一つは、真言律宗は釈迦の教えに回帰するということがあり、聖徳太子の舎利信仰と結びつく。もう一つは、叡尊、忍性という方は病者、貧者救済で有名で、時の政権の手が及ばないところを担っていた。そういう点が聖徳太子の故事にならうということで、真言律宗が全国を席巻していた。

◆毛利‥中世の聖徳太子信仰の話が出たが、武田さん、『唐本御影』との関りは?

◆武田‥『唐本御影』が聖徳太子像であることを疑われていたことがある。その『唐本御影』を太子像であるとしたのは平安時代末期の法隆寺僧・顕真。顕真は法隆寺の改装修復時に多額のお布施を集めるため「出開帳」として上級貴族の家を回った。この時、近衛兼経が聖徳太子像の服を見て「これは他国の像ではない。日本の装束はみな昔こうだった。太子真実の御影なり」と認定した。これは、日本の時代考証の始まりではないか。 その後も、顕真は聖徳太子の舎人の調子丸や百済の阿佐太子の存在を利用して、『唐本御影』は本物であるというストーリーをつくり上げ、法隆寺の地位を上げたと考える。

◆毛利‥聖徳太子信仰の原点に立ち返ると、『日本書紀』の中にある「十七条憲法」について森さんはどう考えるか。

◆森‥『日本書紀』の巻22「推古紀」には「十七条憲法」が収められている。巻22はβ群で、憲法の漢文も間違いだらけ。石井公成氏によれば、内容は梁の「成実師」系統の影響を受けている。「十七条憲法」は飛鳥時代に原型があり、それを巻22の述作者が潤色・修文したものだと考える。

◆毛利‥聖徳太子信仰はいかにして全国に広がっていったのか。

◆瀨谷‥象徴的なものとして西国では広島の浄土寺があげられる。鎌倉時代後半、叡尊の弟子の定証が尾道に下り浄土真宗の寺を真言律宗の寺とした。その時、奈良の長谷寺の十一面観音に見立てた観音を安置。その十一面観音が「聖徳太子御作の像だ」という伝承も持って行き、次々に聖徳太子像を作る。こうして西の聖徳太子信仰のメッカとして浄土寺を整備していった。 東では常陸の国、現・茨城県には素晴らしい太子像や絵伝が集中的に伝来している。茨城は親鸞ゆかりの地でもあるが、実は叡尊の弟子の忍性が下向して東国の拠点にした。太子像や絵伝などを制作し太子信仰をビジュアル化していったのはどうやら真言律宗だったようだ。また、茨城県の妙案寺にある聖徳太子絵伝には、大工や石工の姿が描かれている。実は、大工や石工ら職人たちを統率していたのは真言律宗だということが知られており、ここにも真言律宗の影響があったのではないかとわかってきた。

◆毛利‥女性の間ではどのような聖徳太子信仰があったのか。

◆武田‥聖徳太子が書いたとされる「法華義疏」というのは仏教経典の中で唯一女人往生を可能にする経典で、太子は615年にこれを推古天皇に講義したという記録がある。法華経は女性たちに広がった。また、勝鬘義疏の主人公の勝鬘夫人というのは在家の女性である。聖徳太子というのは女性救済ということを初めから考えておられたのだと思う。仏教の中でも非常に女人救済に視野を置いた経典を流布させようとした、これは太子の見識ではないか。

◆瀨谷‥最古の聖徳太子二歳像は現在ハーバード大学に所蔵されている。この像は叡尊ゆかりの尼僧たちによって作られたことがわかった。やはり可愛い子どもを連想させるお姿というのは女性たちの信仰を集めたのではないか。

◆毛利‥聖徳太子は時代を映す鏡。今後どのような形で聖徳太子を伝えていけばいいのか。

◆森‥今、日本史の教科書では聖徳太子と言わずに、「厩戸王(聖徳太子)」などと記されている。しかし「厩戸王」なんていう名は古代、中世には出てこない。それなのに、今になって何故「厩戸王」と記すのか。『日本書紀』には「東宮聖徳」という名称も見えるので、「聖徳太子」で問題ない。 聖徳太子が政治を補佐した推古朝は、大変画期的な時代だ。文明の国際的なスタンダードを求めて仏教による統治を行おうとした。暦を作るために天文観測を行い、歴史書を作り、隋とも交流した。もう一度、聖徳太子と推古朝を見直す時に差しかかってきたと思う。

◆瀨谷‥聖徳太子は聖徳太子。生きている時も亡くなった直後も営々とその時代の中で日本の仏教の祖師として信仰されてきた。我々研究者が、どのように信仰されてきたかということを明らかにすることが先々の聖徳太子信仰にもつながっていくのではないか。

◆武田‥私が聖徳太子像のことを書いたのは随分前だったが、この機にいろいろな方の太子信仰の集大成のようなものを読んだ。聖徳太子研究というのはものすごく進んでいる。私もまた聖徳太子をやりたいと思うようになった。

画像 アトラクション

バーチャルリアリティーコンテンツ『国宝聖徳太子絵伝』上映

国宝『聖徳太子絵伝』は、延久元年(1069年)に秦致貞によって描かれたもの。現存する聖徳太子の絵伝の中では最も古く大きな作品である。現在は東京国立博物館に所蔵されているが、元々は法隆寺に飾られていた。この絵伝をVR(バーチャルリアリティー)技術によって元あった法隆寺東院の絵殿に戻し、平安時代の人々と同じ視点で鑑賞できる映像コンテンツに。制作にあたった凸版印刷株式会社スタッフの解説とともに会場内で上映された。現在では観覧が難しい絵殿内部の様子や肉眼では見えにくい絵の細部、経年による傷みのために不鮮明になった部分などもVRの活用で再現、復元が可能に。より多くの人がインタラクティブに楽しめるようになった。 聖徳太子の生涯を描いた絵伝は、21世紀の技術によって未来へと受け継がれていく。

薮井佑介スペシャルコンサート

『聖徳太子』 最先端電子楽器で奏でる「聖徳太子」

シンポジウムの最後を飾ったのは、世界初5次元キーボード「Sea board」やAR(拡張現実)楽器など複数の最先端電子楽器をひとりで演奏する薮井佑介氏によるスペシャルコンサート。 和服で登場した薮井氏は『金の舞』『時空悠々』など聖徳太子をイメージしたオリジナル曲などを披露。世界の音楽に〈和〉の音色とリズムを融合させた、ひとりオーケストラともいわれる渾身のパフォーマンスで観客を魅了した。

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【プロフィール】
古谷正覚(法隆寺管長)
1948年大阪府生まれ。1971年龍谷大学文学部卒業、高野山大学大学院修士課程中退。1985年、法隆寺執事就任。法隆寺文化財保存事務所所長補佐を経て1995年に同所長就任。1999年、聖徳宗宗務所長・法隆寺執事長就任。2020年、聖徳宗管長・法隆寺住職就任。

【プロフィール】
武田佐知子(大阪大学名誉教授)
1948年東京都生まれ。専門は日本史学・服飾史・女性史。大阪外国語大学教授(1997年)、大阪大学理事・副学長(2007年)、追手門学院大学地域創造学部長(2014年)を経て、2019年退任。現在は大阪大学名誉教授。

【プロフィール】
森博達(京都産業大学名誉教授)
1949年兵庫県生まれ。専門は東アジア語文交渉史の研究、音韻・漢語・漢文にわたる語文交渉史の研究。大阪外国語大学外国語学部中国語学科卒業。 名古屋大学大学院博士課程(中国文学専攻)中退。 愛知大学専任講師、同志社大学助教授、大阪外国語大学助教授、京都産業大学を経て、現在に至る。

【プロフィール】
瀨谷貴之(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)
1971年茨城県水戸市生まれ。専門は日本彫刻史。東北大学大学院文学研究科博士課程後期単位修得退学後、日本学術振興会特別研究員を経て現職神奈川県立金沢文庫学芸員。

【プロフィール】
薮井佑介 (次世代電子楽器パフォーマー)
世界の音楽に〈和〉の音色とリズムを融合させた独自の【和魂ミュージック】を展開。2018年、‘Lee Ritenour’s Six String Theory Competition’ピアノ部門世界6位タイ。 2016年公開の音楽映画「ラ・ラ・ランド」で主人公が演奏し世界で話題となった未来型5次元キーボード‘Seaboard’を中心に空中で音を奏でるAR[拡張現実]楽器など複数の最先端電子楽器を全身で奏でる演奏スタイルは世界でも類がなく、そのパフォーマンスは圧巻。次世代電子楽器の奏者・作曲家のトップランナーとして活躍。昨年、作曲コンテスト‘サウンドクリエイター・オブ・ザ・イヤー’でグランプリを受賞。日本遺産・旧閑谷学校など歴史的建造物をはじめ神社仏閣や美術館、日本の美しい風景の中でのライブにも積極的に取り組み、その空間や歴史的背景をモチーフに即興演奏を行うことも多い。