記紀・万葉講座

なら記紀・万葉集大成連続講演会
第4弾「聖徳太子」

2020年12月19日(土)13時30分~16時00分
会場:王寺町地域交流センター リーベル王寺東館5階リーベルホール
総合司会:金谷俊一郎氏
(歴史コメンテーター・教育ジャーナリスト・東進ハイスクール日本史科講師)

プログラム
第1部 基調講演:「蘇我氏と聖徳太子」
倉本一宏氏(国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学教授)
第2部 トークセッション:「記紀・万葉から聖徳太子へ」
モデレーター:
倉本一宏氏(国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学教授)
パネリスト:
金谷俊一郎氏(歴史コメンテーター・教育ジャーナリスト・東進ハイスクール日本史科講師)
岡島永昌氏(王寺町地域交流課文化資源活用係係長・文化財学芸員)
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基調講演

「蘇我氏と聖徳太子」ということで、蘇我氏とは何か。蘇我氏はなぜ急に出てきて、急に偉くなったんだろうという話から進めます。 蘇我氏が最初に出てきたのは6世紀になってからです。大和盆地南西部の葛城地方に基盤を持った葛城集団から、稲目の代に独立した集団であるという次第です。蘇我氏の実質的な始祖は六世紀初頭の蘇我稲目であり、いきなり「大臣(オホマヘツマキ)」という重要な職位につき、倭王権の実務を掌握することになりました。

蘇我氏は葛城地方の中東部にあたる曽我の地に進出し、この地を地盤とすることによって、氏(ウヂ)として成立し、葛城集団の勢力の大多数を傘下に収めました。 葛城集団が持っていた政治力と経済力、対朝鮮外交の掌握や渡来人との関係、また大王家との姻戚関係という伝統をも掌中にしました。 蘇我氏は突然に出現した集団ではなく、その成立時から突出した政治力や経済力、そして尊貴性を倭王から認められた存在だったと言えます。 日本書紀を作る際に起点が必要であると考え、古代国家を出来上がるときに聖徳太子にフォーカスが当たります。

日本書紀を見ると聖徳太子は失敗続きであったが、偉大な聖徳太子がなぜ失敗したのかという理由も作らないといけない。失敗続きになるわけがない、誰か邪魔した人がいたんだということで、蘇我氏にその役割が当たります。 蘇我氏は先進的で立派な人であり、天皇家のミウチでもあるが、日本書紀でいうと悪い人だから、藤原鎌足が倒したんだ、これからは藤原氏がずっと続くんだ、という論理になっていますが、我々が日本書紀の論理に振り回される必要はなく、冷静に考えるべきだと思います。 皆さんも日本書紀を読まれる方は不思議に思うかもしれませんが、蘇我稲目はものすごくいい人に書かれていて、蘇我馬子もすごくいい人に書いてあるが、死ぬ間際になって突然悪い人になるんです。ここで原史料が変わり、「仏教を保護する立派な蘇我氏」として稲目と馬子は作られているが、途中から入鹿討滅物語のようになっている。蘇我氏が悪いからやっつけた、という藤原氏の作ったような内容になっている。天皇をないがしろにして国政をほしいままにした、とされているが、逆に言えば私財を投げうって、倭国を守ろうとしていた。立派な屋敷を作って砦のようにしたというのは、自分の屋敷を自分のお金で飛鳥を守るための要塞化した、そんなすごくいいことをしたのに、いきなり殺されて、理不尽だと思い、入鹿には同情しています。

蘇我馬子は、稲目の死去直後大臣(オホマヘツミキ)の座に就く。また、馬子の死と厩戸王子と推古天皇が死ぬのはほぼ同じ時期であり、時代の主役が相次いで死んでしまうんですね。政権に50年以上大臣の座につき、日本でも屈指の長期政権であったと言えますね。 かつては、聖徳太子を邪魔したと言われていた蘇我氏ですが、厩戸王子は父方から見ても、母方から見ても蘇我系なんです。しかも推古天皇も「蘇我から出た」と言っているので、蘇我氏を核とした権力中枢ができていたと言えます。

隋と国交を結ばないとだめだということで、朝鮮諸国に対する国際的な優位性確立を目指します。六〇〇年に遣隋使が行っているのですが、隋書には書いてあるが、日本書紀には書いていないんです。なぜかと言うと、この人たちは非常に野蛮で、使者が行くと皇帝から歴史や地理を聞かれるのですが、何もわかっていないなど、政治体制が原始的であることを、文帝から道理にかなっていないと非難され、訓じて改めさせられ、空しく帰国しています。 それで、たった七年の間に冠位十二階の制定・小墾田宮の造営・十七条憲法の制定を行っています。律令体制成立、古代国家成立の起点の為ではなく外交の場で自分たちの使者がどんな地位か、冠位が無いと示すことができない。また、隋の使者が来た際にお迎えするための宮を作る、法律が無いので憲法と称するものを作る、という外交のためのもの、と見た方がよろしいかと思います。なお仏教を信仰したのもその一環だと思います。アジア諸国で仏教を信仰していないと馬鹿にされる、という背景からグローバルスタンダートに近づいたためだと思います。

第三次遣隋使は、八人の留学生・学問僧が従いましたが、行っている間に隋が滅びて唐になるという革命を体感しています。国が滅びるとはどういうことか、ということを帰ってからも伝え、このままじゃだめだということで、古代国家形成に大きな影響を与えたと思います。

冠位十二階は隋書にも記載があるので存在しました。個人に与えるものであるので氏族制から官僚制への第一歩であると取れます。 十七条憲法も、第四条以降が非常に面白く、原始的なことを書いてあるので、おそらく存在したと思います。 小墾田宮は、なぜ教科書にないのか不思議なのですが、日本の都城の原点であります。圧倒的な規模と構造を持ち、飛鳥の中心の一つだと思います。

推古朝の国制改革といっても不徹底なもので、天武の代以降、古代国家建設の起点として選ばれたのが、推古の代に国政に参与していた厩戸王子であります。偉大な「聖徳太子」の政治を妨害して、その「改革」の歩みを遅くした敵対者を作らなければならないとなって、蘇我氏が設定されたという風に思います。 厩戸王子も有力王子ではあったが、政治の中心人物は蘇我馬子であったと思います。 そして、厩戸皇子・推古天皇・蘇我馬子とも亡くなってしまったのですが、有力王子であったので「聖徳太子」が生きていれば、おそらく後には大王位を継承していたのではないかと思います。

蘇我馬子と大王家は正月の宴で寿歌を唱和するなど、非常に仲良くしておりましたが、葛城県の要求から、蘇我馬子が悪い人だという印象を与えるようになります。 厩戸王子・蘇我馬子・推古天皇の死から新たな時代へと繋がっていきます。 遣隋使から帰ってきた使者より学んだ蘇我入鹿は、独裁者が権力を持った高句麗のように対応しようとします。一方、中臣鎌足は蘇我入鹿と協力すると自分が下に入ってしまうので、誰かを上に立てて自分が権力を握れるようにしようとします。これが後々の大化の改新に繋がっていきます。

また蘇我氏の内部が分裂していて、河内系と飛鳥系が対立し、河内系は蘇我蝦夷と入鹿を裏切る形になります。河内系が大化の改新の際には大臣になって、後に石川氏となります。奈良時代の間は石川氏で、平安時代の九世紀になって、宗岳(ソガ)氏へと戻りました。

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■トークセッション
「記紀・万葉から聖徳太子へ」

王寺町・歴史の魅力について

岡島氏「私は古いことも好きですが、新しい時代にも興味があります。王寺町は「鉄道のまち」として、奈良県で初めて開通した街でもあります。聖徳太子も亡くなられてから太子信仰がどんどん高まっており、王寺町にも太子伝承が数多くあり、興味を持って活動しています。」

金谷氏「リアルで話を聞いて、実際に足を運ぶことがすごく大切です。日本の歴史にはドラマがあります。私は、そういうところに惹かれて、研究よりは感動を伝えたいと思い現在の活動を行っています。地元のすごさ、王寺町の良さを直接子どもたちに伝え、足を運ぶ機会を作りたいと思います。」 倉本氏「達磨寺など聖徳太子に所縁のある土地を朝から巡ってきました。歴史的に見て王寺町のすごいところは、大和と難波を結ぶ交通路がいくつかあるうち、このルートだけ峠が無いんですね。朝鮮から難波の港に届いた物資を船で大和川を遡ってあちこちへと行けるので。」

「聖徳太子」の魅力を探る

倉本氏「厩戸皇子の実態と後世の「聖徳太子伝説」は、分けて考えた方が良いと思うが、「聖徳太子伝説」がどう広がっていったか、ということが大切だと考えています。」

金谷氏「厩戸皇子に関して、後にどんどん伝説が出てきます。伝説がそれだけ後世に出てくるということは、それだけ人を惹き付けるものがあったのではないでしょうか。」

倉本氏「聖徳太子において大切なのは、「聖徳太子信仰」です。法隆寺も四天王寺も国家の支援があまりなく、自力で存続している。宗派を存続させるにあたり、聖徳太子の英雄化に繋がったのではないでしょうか。四天王寺の西の鳥居から夕陽を拝むといい、という人が現代にもいるのは、いまだに信仰が厚い人だと思う。俗人でこれほどの信仰を集める人物であることは、スーパースターだと思います。」

金谷氏「毅然とした外交、倭は大国であると隋書に書かせています。日本の独立性・優位性を保たせるように働きかけ、外国に対して毅然とした態度で自国を守ったことが素晴らしい。子どもにはこんなすごい人がいるんだ、と伝えていきたいと思っています。」

岡島氏「信仰というと高尚に感じるが、地域にとっては親しみのある人として捉えられています。今なお残る伝承にも、人々に寄り添っているものが多くあり、地元の人にとってスーパースターではあるが、人間好きの親しみのある存在であると思います。」

倉本氏「聖徳太子以前に同じような英雄は、日本武尊ですね。二人の共通点は、即位できなかった有力な皇子ということ。」

聖徳太子の魅力や歴史の魅力をどう伝えていくか

岡島氏「王寺町では雪丸の話をしないわけにはいかないです。聖徳太子の愛犬であり、達磨寺の本堂下にある達磨の墓の北東に葬るよう遺言したといわれています。地域に根差した歴史をキャラクターにして、知ってもらうことで、子どもたちからも大人気のキャラクターになっています。 雪丸に関する童話を自身で作成したものもあり、達磨寺の飢人伝説などもわかりやすく伝えています。」

金谷氏「聖徳太子は居なかったのでは、と話題になっていましたが、これだけの伝承や伝説を兼ね備えるカリスマ性のある人を、しっかりと伝えていきたいと思っています。昔のように、誰でもが知っているというわけではなくなっているので、地元の人々も伝え続けてほしいと思っています。」

倉本氏「史実はこうだ、と正しく伝えながら、一般の人にもわかりやすく伝えることが大切だと感じています。歴史学においても正しい歴史の伝承と伝えたい歴史を広げていくことが大切です。」


【プロフィール】
倉本 一宏
国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学教授

1958年三重県津市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程修了。 現在、国際日本文化研究センター(日文研)教授・総合研究大学院大学(総研大)教授。博士(文学、東京大学)。 主要著書:『一条天皇』『壬申の乱』(以上、吉川弘文館)、『藤原道長の日常生活』『戦争の日本古代史』『内戦の日本古代史』(以上、講談社現代新書)、『蘇我氏』『藤原氏』『公家源氏』(以上、中公新書)、『はじめての日本古代史』(ちくまプリマー新書)など。

【プロフィール】
岡島 永昌
王寺町地域交流課文化資源活用係 係長・文化財学芸員

1974年奈良県生まれ。天理大学文学部歴史文化学科歴史学専攻卒、大阪市立大学大学院文学研究科日本史学専攻前期博士課程修了。 2000年刊行の『新訂王寺町史』の編纂に事務局として関わり、以来、王寺町の歴史文化を調査研究する。主な著書に『やさしく読める王寺町の歴史』(王寺町、2015年)、主な論文に「民家壁板による大和魚梁船の船体復元」(『研究紀要』第21集、由良大和古代文化研究協会、2017年)、「西安寺からみた大和川の古代寺院―法隆寺若草伽藍同笵瓦の検討をつうじて―」(『聖徳』第244号、聖徳宗教学部、2020年)など。

【プロフィール】
金谷 俊一郎
歴史コメンテーター・教育ジャーナリスト・東進ハイスクール日本史科講師

京都府出身。歴史コメンテーターとして、誰にでもわかりやすく日本の歴史・文化や地域の魅力を伝える活動を行っており、全国での講演会や、テレビ・ラジオに多数出演。25年以上、東進ハイスクールの日本史科トップ講師も務める。 著書は学習参考書から一般書まで多数あり、『学習まんが少年少女日本の歴史』(小学館)の最新刊の解説も担当している。 主なテレビ出演は、「世界一受けたい授業」(日本テレビ)、「Qさま!!」「裸の少年」(テレビ朝日)、「クギズケ!」(読売テレビ)。