記紀・万葉講座

なら記紀・万葉集大成連続講演会
第2弾「日本書紀」

2020年10月11日(日)13時30分~16時
会場:奈良県コンベンションセンター 天平ホール

プログラム
第1部 基調講演「日本書紀にみる歴史の交差−天皇の歴史と豪族の歴史」
講師:関東学院大学准教授 河内 春人 氏
第2部 パネルディスカッション「『日本書紀』をやさしくひもとく」
〈パネリスト〉
関東学院大学准教授 河内 春人 氏
奈良文化財研究所都城発掘調査部史料研究室長 馬場 基 氏
マンガ家 つだ ゆみ 氏
〈コーディネーター〉
編集者・俳人 倉橋 みどり 氏

第1部

基調講演「日本書紀にみる歴史の交差−天皇の歴史と豪族の歴史」

日本書紀はどのように作られたのでしょうか。従来、帝紀や旧辞もしくは本辞と呼ばれる朝廷が持っていた史料がベースになり、それを発展させて作ったのが日本書紀であるという位置付けで語られてきましたが、果たしてそれだけでいいのでしょうか。このような視点に立つ時に注目されているのが、持統天皇の時に豪族たちから史料を提出させたという記述です。それがどの程度日本書紀に反映しているのかということが、今回の主題です。もし天皇や律令国家が新しい歴史書を「天皇家の史料に基づいて作った、これが今後の公認された日本の歴史である」と作成して、貴族たちが素直に受容するでしょうか。だいたい押し付けられたものは読みたくないわけですが、これがもし豪族たちが提出した史料が使われていると分かっていたらどうなのか。おそらく自分たちが提出した史料がきちんと載っているか確認し、それをふまえて受容したのではないでしょうか。それを一番象徴的に表しているのが神話の部分です。日本書紀の神話は本文の後に一書といって、別の話がいくつも載っています。つまり、まとめきれていないのです。まとめてしまうと、おそらく貴族たちから “自分の一族の神話はこんな話ではない”といった不満が出てしまう。それを避けるため、まとめきれない話は全部羅列して載せ、敢えてまとめる作業をしなかったとも推測されます。そうした中で、豪族たちが提出した史料はどの程度反映しているのだろうか?という問題が出てきます。
日本書紀の推古二十二年(614)を見ると、遣隋使について「犬上君御田鍬・矢田部造<名を闕(もら)せり>」とあり、矢田部氏の名は記録に残っていません。犬上君御田鍬と矢田部造某が派遣されたという部分、これは国の記録かというと違うかもしれません。『先代旧事本紀』という史料にこの遣隋使の話が載っていますが、そのなかに「大仁矢田部御嬬連公」ときちんと名前が載っています。しかも矢田部造の方が大使で、小使つまりナンバー2として犬上君御田鍬の名前が出てくる。名前が先に出てくる方が立場的に上となるので、日本書紀で犬上君御田鍬の名前が先にあって、矢田部造の名前が記録に残ってないというのは、これは犬上氏が出した記録の可能性が高いのではないかと考えられます。このように豪族たちの出した記録というのは、それぞれ自分の一族中心に考えるので、書き方もそのように反映されます。また、氏族の中にグループごとの対立があり、ライバルの功績にならないよう敢えて名前を記さずぼかした上で、氏族としての活躍は大々的にアピールする形になっているような史料もあります。このように見ていくと個々の記事が矛盾なく調整されるのではなく、採用すると決めた史料をそのまま載せてしまっている可能性があります。逆に言うと、日本書紀を読むときに不自然な書き方をしていると、ここは編纂の裏で何かあったのではないかと考える手がかりになります。
 日本書紀というのは王権の歴史だけではなく、いろんな豪族たちの記録や物語を取り込んでいます。ただ単に“何年何月何があった”ではなく、この記事によって誰が得をするのだろうとか、そういうことを考えながら読むとまた違った日本書紀の読み方ができるのではと思います。

第2部

パネルディスカッション「『日本書紀』をやさしくひもとく」

倉橋:今年は日本書紀編纂1300年。よく考えたら1300年ってすごく長い時間ですよね。

馬場:なぜ日本書紀が守られたかというと、その後受け継がなければならない。私たちが物事を考える、アイデンティティーの起点となるバイブルみたいなものですね。そういうふうにしてできたから受け継がれていく。まずこれが大前提であります。

つだ:例えば江戸時代なんて武士の時代ですが、その頃も日本書紀って勉強されていたのですか?

河内:いつの時代でも日本書紀が全部読まれ続けるかというと、そのようなことはなく平安時代の中頃になると日本書紀の講書と呼ばれる勉強会も終わってしまい、ほったらかしになっていきます。ただ、鎌倉時代頃になると神道が日本書紀を重視するようになって、神話の部分だけ研究するようになる。ただし歴史性のある部分も読まれなくなってしまうけれど、ちゃんと保存はし続けるんですね。戦国時代の頃に一旦応仁の乱で貴族たちが地方に避難して、無くなりかけるんですけれど、徳川家康が頑張ってもう一回集める作業をしています。

馬場:日本書紀に関してすごいなと思うのは、日本の各地で神社その他いろいろ古いのを伝えて、それをまた集めたり研究したりというのがネットワークになったりして、現在の学問につながっている。これはすごいことだと思います。奈良は日本書紀発祥の地で、同時にそれが全国に網の目のように広がっていって、受け継がれて学ばれて伝えられたという、このイメージはしっかり持っておきたいなと思います。

倉橋:そうですよね。ここまで受け継がれて来たわけですから、少しでも裾野を広げて次の世代に繋げないといけないなとは思うのですけど。1ページ目から読み始めるのがいけないんでしょうか?

河内:頭から読もうと決めてかかると、途中で読むのが苦しくなってしまいますから、好きな人物や気になる出来事とか、そういうところを気軽にピンポイントで読んでいくというのが一番読みやすいんじゃないかと思います。

つだ:好きなキャラクター見つけるとか、イケメンを見つけちゃうとか。

倉橋:つださんはヤマトタケルなどは素敵に描いておられますね。

つだ:マンガなので許してもらって、全部少年っぽく描いています。例えばスサノオなんか結構無骨な男に描くイメージが多いですけど、自分が描いて楽しいようなタッチで描きましたね。私の『わかる日本書紀』、マンガでわかりやすくはなっていますので、読みやすいなと思ったらお手にとっていただければ。

馬場:たぶん僕は歴史学者としての目をはずすと、古事記は小学生の日記、割合に素直に「自分に見えた」世界を書く、日本書紀は中学生の日記 、一生懸命背伸びして「自分のなりたい」世界を書くというニュアンスだったんじゃないかと思うんです。
とっつきにくい場合のおすすめは手塚治虫先生の『火の鳥』の、壬申の乱や犬上が出てくるところですね。白村江で負けて帰って来た渡来人が豪族になって壬申の乱に巻き込まれるというのがあるんですが、よく調べてあります。それを読んだ上で日本書紀の同じところを読んで、その空気感を比べていくと面白いです。それを最後まで見ていくと例えば日本書紀というのを作った若者は、どんな国にしたかったのかとか見えてきます。こういうのを楽しんでいただけると面白いんじゃないかなと思います。

河内:日本書紀の原文は漢文で非常に読みにくいので、読み下しなどで読んでもらえるのがいいかなと思います。様々な人がそれぞれのイメージで日本書紀を読んでいるので、どれか一つというのではなく読み比べて、イメージが違うなぁというのを楽しむやり方もあるのではないでしょうか。そこから気になれば、実際の日本書紀にはどう書いてあるのか読んでみることによって、自分なりのイメージが作られていくことにもなるかと思います。同じ話だから読まないのではなく、同じ話をいろんな角度から読み直すと面白いと思います。

倉橋:なるほど。拾い読みでいいんだということを自分に言い聞かせながら、また読み始めてみたいと思います。みなさんで、この1300年続いた日本書紀を次の時代に受け継いでいく一つの力になっていっていただきたいと強く願っています。