ドラマ日本書紀

ドラマ日本書紀Ⅱ 事始のものがたり 第3話 ~演劇のはじまり~

わたしは、人呼んで事始(ことはじめ)の博士。ここ奈良は日本の始まりの地といわれておるが、実にさまざまな物事がここで始まったのじゃ。さあ、これから、物事の始まりについて、ひとつずつ語って進ぜよう。

今回は演劇じゃ。
『日本書紀』にこんなことが書かれておる。
推古天皇20年(西暦612年)、この年、百済から日本を慕ってやってくる者が多かった。その中に、百済人の味摩之(みまし)という人がいて、「私は、呉(くれ)に学んだので、伎楽(ぎがく)の舞ができます」といった。呉は、中国南部の江南地方とされ、伎楽は無言の仮面舞踊劇のことじゃ。面をかぶった人々が音楽に合わせて舞う。伎楽は演劇のルーツといってもいいじゃろうのう。

この伎楽はもともと古代チベットやインドで生まれ、シルクロード、中国・朝鮮半島を経て日本に伝わった。いまでも日本では伎楽のことを「呉楽(くれがく・くれのうたまい)」とも呼んでおるが、それもこの「呉に学んだ」という言葉とつじつまが合っておるのう。

ところで、この報告をきいた朝廷では、味摩之を桜井に住まわせ、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。いわば国立の演劇研究所のようなものを作ったのではないかといわれておる。舞を習った少年は、真野首弟子(まののおびとでし)と新漢斉文(いまきのあやひとさいもん)。ふたりはしっかりと伎楽を習い覚え、後世へと伝えていったのじゃろう。この少年ふたりは、それぞれ大市首(おほちのおびと)、辟田首(さきたのおびと)らの先祖にあたるということも『日本書紀』には書かれておる。

それから時代が下り、奈良時代に入ったときには、寺院の大きな法要を行うときなどに伎楽が演じられるようになった。例えば、東大寺では天平勝宝4年(西暦752年)の大仏開眼供養のときにもいろいろな国の人々によって伎楽が演じられた。このときに使われた面や装束は正倉院宝物のひとつとして現代まで伝えられておるんじゃよ。


※人名地名の読み方は『新編 日本古典文学全集』(小学館)を参考にしています。

土舞台
『日本書紀』に出てくる味摩之が少年たちに伎楽を学ばせたところとされる。住宅街を抜けた小高い場所にあり、木々に囲まれた静かな広場になっている。しめ縄がかけられ、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)が揮毫した「土舞台」の文字が刻まれた立派な顕彰碑がある。


住所/ 桜井市谷

交通/ JR・近鉄「桜井駅」より南へ約800メートル

向原寺
現在は浄土真宗の寺院。かつては豊浦寺のあった地と考えられている。『日本書紀』に味摩之を住まわせたところは「桜井」とあり、現在の桜井市とする説が有力だが、『元興寺縁起』『法王帝説』によると豊浦寺の建てられた地とある。発掘調査で、現在の向原寺の境内を含む一帯に推古天皇の豊浦宮があり、宮が小墾田宮に移ったあとに造られたのが豊浦寺であることがわかってきた。


住所/ 高市郡明日香村豊浦630

交通/ 近鉄「橿原神宮前」駅より奈良交通明日香周遊バス「豊浦」下車すぐ