生駒山を越えるルートといえば、記紀の昔から暗越奈良街道でしょう。いまも奈良県と大阪府の県境付近、暗峠の道標があるあたりには風情ある石畳が残ります。忙しそうな車や、ハイキングの人々が行き交うが、誰の姿も見えないときには、今がいったいいつなのか・・・ふと時空を超えたような不思議な気持ちになりました。
毎年10月に行われる火祭りに使われる建物でしょうか? 板壁や柱が焦げています。近寄ってみると、焦げた黒と横に平行に伸びた何本かの線がデジタルに見えてきました。アナログなこの由緒ある往馬大社の境内にデジタルな物を見つけられたようで少しうれしくなりました。
ここ高山は、室町時代より約500年続く茶筅の里。高山竹林園の美しい庭園には、数多い品種の竹が植えられています。この写真は、毎年秋に開催される「高山竹あかり」でのショット。薄暮の時間帯に竹林から月を眺めたシルエット。思いは竹取物語の昔へ、さらに記紀万葉の時代へと静かに遡っていきました。 当サイトのTOPページで流れている記紀・万葉ゆかりのイメージ写真も澤氏撮影
高千穂宮を出て、東へ東へと進まれた神倭伊波礼毘古命(『古事記』での表記。『日本書紀』では神日本磐余彦天皇)は筑紫、安芸、吉備、浪速を経て、まずは竜田を越えようとしたが、断念。その次に進んだのが現在の生駒山であった。そこでは長髄彦(ながすねびこ)との戦いとなり、流れ矢を受け、五瀬命(いつせのみこと)が負傷してしまう。生駒山を越える暗越は険しく、神武東征を阻んだ山となったが、古代から河内と奈良を結ぶ最短のルートとして多くの人に利用されてきた。江戸時代には俳聖・松尾芭蕉もこの山を越え、大坂へと向かい、最期を迎えた。 『万葉集』には生駒山を詠んだ歌が7首収められている。そのうちの一首は、遣新羅使のひとりが詠んだ、「どうしても逢いたくて険しい生駒山を越える」というもの。生駒山は、越えればそこは大和の国、というイメージで捉えられていたことがうかがえる。その感覚はトンネルが開通した現在もそれほど変わってはいないのかもしれない。