神々しいまでに美しくそびえる高見山は標高1,249メートル。冬の霧氷でも知られますが、神武天皇が東征の際に、この山に登り、国見をしたという説もある山です。一方、手前に広がる集落はどこまでものどかで、ずっと変わらない人々の暮らしのおだやかさが感じられます。
異常気象だといわれる昨今も、結局のところ花の開花時期はそれほど狂いはしません。花はどうやって季節を知るのでしょうか。きっと、性能のよい時計を持っているのに違いない・・・などと思います。そんな花たちも、奈良には珍しい大雪に見舞われたら首を上げることも出来ず、ただ耐え忍ぶしかありません。椿のつぶやきを聞いたような気がして、シャッターをきりました。
大宇陀は風景に障害物が少なく、カメラマンにとっては自然の美しい光景をリアルに戴ける地でもあります。晩秋は、連なる山々を靄が覆い、逆光による煌めきが、ほかにはない風景を生み出すのです。この日は、重なり合う山々が金色から琥珀色のグラデーションとなり、手前の森の影との絶妙なコントラストを見せてくれました。 当サイトのTOPページで流れている記紀・万葉ゆかりのイメージ写真も澤氏撮影
宇陀には『古事記』『日本書紀』『万葉集』それぞれにゆかりの地がいくつもあり、伝承や地名にその名残がある。例えば、初代天皇である神武天皇は吉野を経て宇陀(菟田)に入り、エウカシとオトウカシという豪族に会い、反抗するエウカシを倒した。また仁徳天皇の時代、天皇から求婚された女鳥王(めどりのみこ)が、天皇の使者の速総別王(はやぶさわけのみこ)と恋に落ち、謀反をけしかけるような歌をよんだため、追われることになった。そのとき宇陀から伊勢へと逃げようとしたが、宇陀の蘇邇(現在の曽爾村)で追いつかれ、討たれてしまった。また、壬申の乱の際には、天武天皇の一行は、吉野宮から、宇陀(菟田吾城(うだのあき)・甘羅村(かんらのむら)・菟田郡家(うだのこおりのみやけ))を通り、伊賀、伊勢を経て美濃に入り東国を抑えた。乱から8年後の天武9年(680年)、天武天皇が菟田吾城(うだのあき)に行幸をしていることからも、重要な地であったことが伝わってくる。