これは、飛鳥寺の西側に建っている「蘇我入鹿首塚」です。飛鳥板蓋宮で乙巳の変が起こったとき、蘇我入鹿の首がここまで飛んできたという言い伝えがあります。そんな事件があったことなど想像もできないほど、現在はのどかな田んぼに囲まれ、静かに建っています。
うららかな春の日。飛鳥川のほとりで、桜は我先にと咲き誇っているが、よく見ると咲いた花びらの間からまだたくさんのつぼみが潜んでいました。古代、新しい時代に向かって多くの歴史的事件が起こった飛鳥。そこで生きた人々の不安と希望とがあいまって伝わってくるようです。
石舞台古墳と多武峰を結ぶ道のちょうど中間点にある尾曽集落。そこには、東から西に下る曲線美の棚田が今もあり、遠くには二上山も見えます。この日は雨上がりの靄が立ち上り、刈田とまだ青さが残る稲穂とのコントラストが鮮やかな光景をワイドにとらえました。
現在は、田園風景が広がり、のどかな雰囲気が人気の明日香村だが、古代には歴代の宮が置かれる国の中心地であり、「飛鳥時代」と呼ばれる時代があるほどで、記紀万葉集のいずれにも、「明日香」「飛鳥」などの表記で登場する地名である。『古事記』には、即位する前の反正天皇が、難波から石上神宮に参拝する途中で二泊し、最初に泊まった地(現在の大阪府羽曳野市飛鳥周辺)を「近つ飛鳥」、現在の明日香村周辺を「遠つ飛鳥」と名付けた場面がある。『日本書紀』では、皇太子である中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我入鹿を倒した乙巳の変(645年)をはじめ、ときには血なまぐさいような事件の現場となった。一方『万葉集』には、平城京に遷都した以降も明日香をなつかしく思うものなど「飛鳥」または「明日香」が入っている歌だけでも30首を数える。