吉野宮滝にほど近い喜佐谷にある桜木神社。壬申の乱の際、天武天皇がこの場所にあった桜の大木に身をひそめ難を逃れたため、後にこの神社が創建されたという言い伝えがあります。 晩秋の人気のない境内。ときに血なまぐさい古代史へと私を誘うように、木末橋(こぬればし)の屋根は、真っ赤な紅葉で染め上げられていました。
遙か昔、神武東征に使われた道はこのどの辺りだろうか。起死回生を願いながら、神武天皇は雲の上を走るように押し進んだのだろうか。雲海の下には東熊野街道、国道169号線を車が行き交っている。
丹生川上神社中社の御祭神は、水利の神として、又は雨の神として信仰され、特に五穀の豊穣を祈願されてきました。 10月には神社最大の祭典太鼓台奉舁安全祈願祭も行われ、氏子の7つの大字より7連の太鼓台が境内に集合し練り回す姿は勇壮そのものです。われわれの営みを見守るように、拝殿の右にある樹齢1000年程の大杉の古木はいつも堂々と空に向かってそびえていました。 当サイトのTOPページで流れている記紀・万葉ゆかりのイメージ写真も澤氏撮影
『古事記』『日本書紀』では神武東征の通過地として、また多くの天皇らが訪れた場所として登場する吉野。よく知られているのは、兄の天智天皇の臨終を前に出家し、吉野宮に移った大海人皇子だろう。大海人皇子は後に吉野から挙兵し、壬申の乱に勝利し、天武天皇となる。天武天皇の皇后であった持統天皇も生涯30回以上吉野宮へ行幸した。 ほかに、応神天皇、雄略天皇、斉明天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇も吉野へ行幸している。なお、ここでいう吉野は、いわゆる吉野山ではなく、宮滝付近を指すと考えられている。 また、『万葉集』には吉野(芳野も含む)を詠んだ歌が60首余りもある。 しかも、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持といった『万葉集』を代表する歌人がそろって吉野を題材にしている。