葛城・秋津の郷めぐり

  • 葛城・秋津の郷めぐり
  • 日本書紀によると、大和を平定した初代神武天皇は「腋上の間の丘」に登り国を見渡し、こうおっしゃたといいます。「妍哉(あなにや)、国を獲つること(なんと素晴らしい国を獲たことか)。内木綿(うつゆふ)の真乍(まさ)き国といえども(狭い国ではあるが)、なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな。」。これにより日本の国号が「秋津洲(あきつしま)」と名付けられたといいます。神武天皇が見下ろした秋津洲の地を巡り、大和三山が一望できる素晴らしい景色と豊かな自然を楽しみながら古代のロマンに想いは膨らみます。一言主神と雄略天皇の物語。古郷を偲んで歌を詠んだ磐之媛の想い。欠史八代といわれる綏靖天皇、孝昭天皇、孝安天皇の宮跡に彼らは本当に存在しなかったのか。宮山古墳に眠るといわれる葛城襲津彦の武勇。そして葛城王朝は?想像を膨らませながら歩く謎に満ちたコースです。

【このルートをおすすめする観光ボランティアガイド】御所市観光ボランティアガイドの会

御所市観光ボランティアガイドの会御所市観光ボランティアガイドの会

■ガイド団体紹介葛城古道、巨勢の道、秋津洲の道など、御所市の魅力を観光客の皆様に全力でお伝えします。各社寺の説明に加えて四季の野花、美しい風景も楽しんでいただくことがもてなしの心と考えており、御所市を盛り上げるべく活動しています。■連絡先(ガイド申し込み先) 御所市観光協会(御所市観光ボランティアガイドの会) 〒639-2298 奈良県御所市1-3 TEL&FAX 0745-62-3346

鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)

鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)

御所市櫛羅(くじら)の県道御所香芝線(山麓線)沿いに鎮座し、祭神は大山祗命(おおやますみのみこと)・大日霎貴命(おおひるめのみこと)・御霊大神(みれいおおかみ)・国常立命(くにとこたちのみこと)を祀り、祈雨祭・祈年祭の神で三代実録によれば、風雨を祈るため奉幣されているという。昔は現在地よりも西に鎮座していて猿目垣内の岸野山と伝えられ、また、下鴨社(鴨都波神社)に対して、上津賀茂とも呼ばれていました。木造大霎貴命座像・木造御霊大神座像の二体は、室町期に造られた一木造彩色像で、国の重要文化財に指定されています。なお、神社東南部、小字天田から昭和二五年、人物文様のある高さ四五センチの銅鐸が出土し、県立青翔高等学校に保管していましたが、火災によって現在は所在不明となっています。また、その昔に鎮座していたという岸野山には江戸後期の櫛羅藩陣屋跡(櫛羅城跡)が現存していて、山上に本殿跡の他城門礎石、山下に堀、合宿所跡、軍器鍛治工場などが「南葛城郡誌」の挿図に示されています。

六地蔵(ろくじぞう)

六地蔵(ろくじぞう)

御所市櫛羅の山麓沿いに鎮座する、鴨山口神社から旧道の坂道を、葛城山に向かって少し歩くと、集落のはずれに行く手を阻むように、大きな石がどっかりと腰をおろしています。この地域は古代から中世にかけて、兄川の出水等により、度々災害が発生し、伝承によれば、六地蔵が彫られた大きな石も、室町時代に土石流が発生し、現在の場所に流れ着いたと言われ、その大災害に対し、村人は仏教の六道をもって衆生を救うという、仏法の精神に照らし極楽浄土を願い、その頃に彫ったと思われます。現在の「櫛羅」は、中世には「倶尸羅」を用い、葛城山を急激に下る土砂崩れが度々発生したため、(大和志にも白砂がある)崩れが語源となっているという説があります。六地蔵は各地にもあるので、この地の六地蔵は特別な石仏ではなく、村人の強い信仰心から大きな石に刻んだものと考えられ、向かって右から天上道(日光菩薩)人間道(除蓋障菩薩)修羅道(持地菩薩)畜生道(宝印菩薩)餓鬼道(宝珠菩薩)地獄道(壇蛇菩薩)となっています。

駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)

駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ)

御所市楢原を通る県道御所香芝線(山麓線)から葛城山へ向かい、歩いて5分程の、鬱蒼とした檜林の中に鎮座しています。かつて駒形神社と大重神社は、別々に祀られていましたが、明治40年に合祀されて現在に至っています。駒形神社の祭神は、村人には木股と呼ばれていますが定かではありません。大重神社の祭神には葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)が祀られています。この人物は645年6月12日に、伝飛鳥板蓋宮の大極殿において、中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀によって、蘇我入鹿が暗殺されるときに、入鹿を殺せと命じられた人物です。ところで、大重神社は延喜式(10世紀初頭完成)に登場する神社ですが、それよりも約200年ほど古い文献の大和史料には「葛木犬養神」と記されています。醍醐天皇の時代に、藤原時平が平安時代に編纂した延喜式には大重となっていることから、犬養を大重と写し間違えられたものと思われます。

九品寺(くほんじ)

九品寺(くほんじ)九品寺(くほんじ)

駒形大重神社のすぐ南にあり、聖武天皇の詔り(みことのり)によって奈良時代の僧、行基が開基したお寺です。1558年、九品寺は浄土宗に改宗しました。御本尊は平安時代後期に造られた木造阿弥陀如来坐像です。国の重要文化財に指定されており、檀信徒の心の拠り所となっています。また、この寺は境内や本堂の裏山に数多くの石仏があることで有名です。千体石仏とよばれる石仏群は、寺伝によると、南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したものや、『集落内にあった石仏をある時期、寺に集めた』と記した史書があったということですが、寺の話では、『百年ほど前、裏山の地中で見つかったそうでどんな状態で埋まっていたかは不明です。』とのことです。その数は1600体とも1700体といわれていますが、現在も出土しておりその数は定かではありません。石仏はどれひとつとして同じお顔はなく、今も、村人の厚い信仰心によって守られています。

葛城高丘宮跡(かつらぎたかおかのみやあと)

葛城高丘宮跡(かつらぎたかおかのみやあと)

高丘宮は綏靖天皇(すいぜいてんのう)の宮があった場所と言われています。綏靖天皇は神武に次ぐ第2代の天皇で、その存在については疑問視されています。しかしながらこの辺りは葛城襲津彦の子にして第16代仁徳天皇の皇后である磐之姫の古郷と言われ、古事記には磐之姫が熊野に行っている間に天皇が八田若郎女を宮中に入れ遊び戯れている話を知り、大いに怒って(磐之姫は嫉妬深いことで有名)宮中に帰らず、堀江を遡って山代へ向かい、更に奈良山の手前まで行き次の歌を詠んだとされます。「つぎねふや 山城川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 那良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり」。いずれにしてもこの地が古代の天皇家と深い関わりがあったのではないでしょうか。

葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

一言主神社は、願いを一言だけ聞いてくれる「いちごんさん」として地元の人から親しまれています。祭神は、古事記や日本書紀の中に見える一言主大神です。雄略天皇が葛城山で狩をしている時、この神は天皇と同じ姿で現れ、天皇が「お前は何者だ」と問いかけたところ、「私は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と申されました。天皇はひれ伏し、その後、共に狩を楽しみ、神は久米川(現曽我川)まで天皇を送って行ったという事です。しかし、続日本書紀によれば雄略天皇と狩の事でいさかいを起こし、四国の土佐に流されたという事です。土佐風土記によれば、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたと記されています。また、今昔物語に登場する一言主神は顔が醜くかったと伝えられ、葛城の怪人と言われた役行者は、修行のため、葛城山と吉野の金峯山の間に岩橋を架けるため、諸神を集めて、架橋工事をさせますが、一言主神は顔が醜かったため、昼は働かず夜しか働かなかったので、石橋は完成しませんでした。役行者は怒って、近くの小川のそばの大木に一言主大神を縛り付けてしまったという事が記されています。また本社境内には、神武天皇紀に記述がある土蜘蛛に関係しているとされてる蜘蛛塚があります。

長柄神社(ながらじんじゃ)

長柄神社(ながらじんじゃ)

長柄神社は名柄街道と水越街道の交差点に位置しています。祭神は下照姫で、俗に姫の宮と称し「延喜式」神名帳に記されています。日本書紀には天武天皇が天武9年9月9日の条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より「以下の馬を名柄杜に看す」と記され、流鏑馬(やぶさめ)をご覧になった事が記されている、由緒ある神社です。本殿は一間春日造、桧皮葺、丹塗で県指定文化財になっています。

寶國寺(ほうこくじ)

寶國寺(ほうこくじ)

「室のお大師さん」として親しまれている高野山真言宗のお寺です。弘法大師が高野山に向かう途中でこの地に立ち寄り修行のため宮山古墳のお堀の岸に草庵を作ったのがはじまりと言われています。ご本尊は弘法大師そのもので、全国でも弘法大師の立ち姿のご本尊はこの寺だけだそうです。この像は弘法大師がお堀に映った自分の姿を見て像を作り、村を立ち去るとき「この像を私と思って念じなさい」と村人に渡したものだと言い伝えられています。本堂の前に粘土の瓦が固まって石になった「瓦岩」があり、癌封じの御利益があると言われています。

宮山古墳(みややまこふん)

宮山古墳(みややまこふん)宮山古墳(みややまこふん)

別名「室の大墓」とも言う前方後円墳。5世紀前葉に造られたと考えられ、全長は238メートルあり、当時の天皇陵墓にも肩を並べる全国で17番目の大きさとされる大和屈指の古墳です。後円部に2基の竪穴式石室が存在し、天井石には兵庫県加古川市付近で出土する「竜山石」が使われています。石室には長持形石棺が安置され、全面に朱が塗られていました。5世紀代にこの石棺を持つ古墳は大王級の人物を埋葬者としていると考えられています。宮山古墳の埋葬者は「孝安天皇」「武内宿禰」など諸説ありますが、現在有力な候補としては、古代の豪族「葛城氏」の祖で、記紀に登場し朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげたとされる葛城襲津彦(古事記では曽都毘古、百済記では沙至比跪と記されています)ではないかと考えられています。いずれにしてもこの地に巨大な勢力が存在していたことは間違いないでしょう。

野口神社(のぐちじんじゃ)

野口神社(のぐちじんじゃ)

大字蛇穴(さらぎ)の西南端に鎮座し、祭神は神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)(神武天皇)とその子の日子八井命(ひこやいのみこと)で、木彫りの竜がご神体です。蛇穴の旧家、野口家と野口神社の由緒を記した野口家所蔵の絵巻物『野口大明神社記』には、「此御神を野口明神といふよしは、・・・御社は未申の端つ方となりて、則野辺の口なれば、いつとなく野口明神といひならひしなるべし」とあります。 蛇穴の地名説話『日本歴史地名大系』が引く蛇穴村の項には、応永25年(1418年)の吐田庄注進文(春日神社文書)に「34条6里 サラケ堂前」、『大和志』に蛇穴と見え、古くはサラケ・サラゲと発音していたようです。また蛇がトグロを巻き穴を作るような状態をサラキと言っていました。嘉永7年(1854年)の『野口大明神社記』の地名説話では、「此邑の名蛇穴といふことの発りし・・・これもふるきことゝ見ゆ。・・・百済より始て仏像・仏教を貢献し時、・・・其仏の皇国言は佐良岐(さらき)といふ。・・・蛇穴の・・・地名とせり。」とあります。 蛇綱曳きと汁掛祭蛇穴村では、毎年5月5日に「蛇綱曳き(じゃつなひき)」と「汁掛け(しるかけ)祭り」が行われていました。(現在、汁掛けは行われません。)蛇綱曳きは稲藁で約10メートルの蛇体を作り、村内を巡行した後、神社拝殿横の蛇塚に納める行事です。(汁掛け祭りは、3斗3升3合の大豆で作った味噌汁を参詣者にかける、悪魔退散の呪法であったと言います。)また、ご神体が戻ってくるのを待って、頭屋が竜のご神体を頭に乗せて、次の頭屋の家に引き継ぎます。 蛇穴の民話昔、蛇穴村の長者に美しい娘がいました。修行のため、門前を毎日欠かさず通る役行者に、娘はいつしか恋慕いますが、行者は取り合いません。娘は行者への執心から、ついに蛇身と化して、行者を追いかけます。その日は5月5日で田植えの季節でした。田へ弁当を持って来ていた村人たちは驚いて、持っていたみそ汁を蛇に掛けました。蛇は近くの井(泉という伝承もある)に逃げ込みました。その場所が現在の野口神社だったということです。

鴨都波神社(かもつばじんじゃ)

鴨都波神社(かもつばじんじゃ)

鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。 お祀りされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。 彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。なお、「ススキ提灯献灯行事」は平成12年に奈良県指定無形民俗文化財になっています。

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