山の辺の道(天理~桜井)

  • 山の辺の道(天理~桜井)
  • 周囲を小高い山に囲まれた奈良盆地。古代、その東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道がありました。「日本書紀」にその名が残る、それが「山の辺の道」です。
    山の辺の道沿いには、今も「記紀・万葉集」ゆかりの地名や伝説が残り、数多くの史跡に出遭え、訪れる人を「古代ロマンの世界」へと誘います。

天理参考館(てんりさんこうかん)

天理参考館(てんりさんこうかん)

1930年に設立され、世界各地の生活文化資料や考古美術資料などを所蔵する博物館です。収蔵する資料は、約30万点を数え、2001年に現在の場所に移転し、約30,000点が常時展示されています。
今となっては現地でも見ることのできない、様々な時代で使用されていた貴重な資料の迫力は、一見の価値があります。また特別展や企画展のほか、公開講座「トーク・サンコーカン」、学芸員の仕事を体験する「ワークショップ」などが行われています。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

石上神宮(いそのかみじんぐう)

日本最古の神社。鬱蒼とした杉木立に囲まれた参道を過ぎると、放し飼いにされた鶏がやさしく迎えてくれます。
かつての、古代豪族物部氏の総氏神で、国宝の「七支刀」(「しちしとう」または「ななつさやのたち」)をはじめ、貴重な文化財が数多く今に伝わります。
また、南北へ通づる「山の辺の道」の起終点でもあり、「石上」「布留」に纏わる万葉集ゆかりの地でもあります。

長岳寺(ちょうがくじ)

山の辺の道沿いにあり、弘法大師が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建されました。
今日では、「関西花の寺:第十九番霊場」として、4月下旬から5月上旬には「平戸つづじ」、5月中旬から下旬には本堂池前に「かきつばた」、秋には紅葉と四季折々の花が境内に咲き誇ります。
また、例年10月23日から11月30日まで、「極楽地獄図」が本堂に掛けられ、住職による現代風絵解き「閻魔の嘆き」などが行われます。

黒塚古墳・黒塚古墳展示館(くろづかこふん・くろづかこふんてんじかん)

黒塚古墳・黒塚古墳展示館(くろづかこふん・くろづかこふんてんじかん)

4世紀初頭につくられた前方後円墳(約130メートル)。1998年(平成10年)には、石室内部から卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡が33面も埋葬当時のまま出土しました。邪馬台国の所在地を巡る論争は、深まるばかり・・・。
隣接する黒塚古墳展示館内には、竪穴式石室が原寸大で復元されており、鏡や鉄製品のレプリカ等が展示されています。

桧原神社(ひばらじんじゃ)

桧原神社(ひばらじんじゃ)

大神神社の摂社のひとつで、三輪山中にある磐座を神体としているので本殿はありません。天照大御神を祀り、元伊勢とも呼ばれています。
井寺池周辺には川端康成、東山魁偉などの万葉歌碑が立ち、空間の中にとけこむような風情をみせています。

大神神社(おおみわじんじゃ)

大神神社(おおみわじんじゃ)

三輪明神ともいい、背後の三輪山を御神体とする我が国最古の神社。
御諸山または神体山ともいわれ、古くから聖なる山、神の山として崇められており、三輪山神話として記紀にも多く登場しています。

金屋の石仏(かなやのせきぶつ)

金屋の石仏(かなやのせきぶつ)

金屋の村はずれにある収蔵庫に収められている2体の石仏。
いずれも高さ2.14メートル、幅83.5センチメートル、厚さ21.2センチメートルの2枚の泥板岩に釈迦如来像、弥勒如来像が浮彫にされています。平安時代でも後期の造立と考えられています。

仏教伝来の地碑(ぶっきょうでんらいのちひ)

仏教伝来の地碑(ぶっきょうでんらいのちひ)

欽明天皇の時代に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金銅像一躯と経論若干巻等を献上し、日本に仏教を最初に伝えたといわれている所。
海柘榴市観音堂を含むこの一帯を日本最古の市のあった海柘榴市跡と呼び、「山の辺の道」の南の起点となっています。

箸墓古墳(はしはかこふん)

箸墓古墳(はしはかこふん)

大きな前方後円墳。全長272メートル、後円部の直径は157メートル、高さ23メートル。前方部の幅は25メートル、高さ13メートル。
孝霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母であった倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の墓であり、周囲には周濠の一部がいまものこっています。

神話の里「神籬」(しんわのさと「ひもろぎ」)

神話の里「神籬」(しんわのさと「ひもろぎ」)

渋谷向山古墳(景行天皇陵)から300メートルほど南、山の辺の道沿いの一画の小字(こあざ)名である「ヒモロギ」は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代(よりしろ)であった「神籬(ひもろぎ)」に由来すると考えられています。笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。仍(よ)りて磯堅城(しかたぎ)の神籬(ひもろぎ)を立つ。」とあり、神籬が神祭りの古い形式であったことが分かります。この場所に神籬を設け神霊をお迎えして、神祭りが執り行われたのでしょう。
一帯は邪馬臺国(やまたいこく)の有力候補地である纒向遺跡(まきむくいせき)に含まれ、倭笠縫邑と伝承される檜原神社(ひばらじんじゃ)にも近く、古代祭祀を考える上で注目されます。